はじめに
あなたは乙巳の変(いっしのへん)という事件を知っていますか?
知らないですか。
では645年の大化の改新(たいかのかいしん)なら知っているでしょう。
無事故(645)の大化の改新のあれです。
現在の高校の日本史では、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺事件を乙巳の変、そのあとの政治改革を大化の改新としています。
ではなぜ乙巳の変、つまり蘇我入鹿暗殺が起こったか知っていますか?
なぜ中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は蘇我入鹿を暗殺しなくてないけなかったのでしょうか?
今回はちょっと長い記事になりますが、蘇我入鹿暗殺事件である乙巳の変について説明します。
推古天皇死後に有力勢力が分裂し対立関係となる
620年代になると、推古天皇(すいこてんのう)をはじめ、厩戸皇子(うまやどのおうじ)や蘇我馬子(そがのうまこ)といった推古朝の首脳たちが次々に亡くなっていきます。
厩戸皇子が推古天皇よりも早く亡くなったことで、ヤマト政権が混乱する
しかしここでヤマト政権内が誰を次の大王を誰にするかをめぐって混乱します。
なぜ混乱したかというと、次期大王予定者であた厩戸皇子が、現在の大王である推古天皇よりよりも早く亡くなってしまったからです。
厩戸皇子(622年)、蘇我馬子(626年)、推古天皇(628年)という順でなくなっています。
ここで何が問題になるかというと、当時の大王即位における厳しい就任条件です。
つまり、
- 血筋がいいこと。父が大王であるのはもちろんだが、母も王族であることが理想。
- 年齢が30歳を超えていること。
- 健康で政治をおこなう能力があること。
という条件です。
厩戸皇子は、年齢以外の血筋とか健康面の条件はクリアできていました。
本来であれば、厩戸皇子よりも20歳ほど年上の推古天皇が亡くなったあとに即位できたはずが、推古天皇が享年75歳と長命であったために厩戸皇子の寿命(享年47歳)が早く尽きてしまったのです。
つまり、有力な大王後継者である厩戸皇子が推古天皇よりも先に亡くなったことで、これらの条件をすべて満たす有力な大王後継者候補がいなくなってしまったのです。
そして推古天皇も代わりの後継者を決めないまま推古天皇も厩戸皇子が亡くなった6年後に亡くなってしまいます。
山背大兄王が舒明天皇と対立する
しかし大王は、なんとしても決めなくてはいけません。
ここで推古天皇の後継者候補として、田村皇子(たむらのおうじ)と、山背大兄王(やましろのおおえのおう)のふたりがいました。
田村皇子は敏達天皇の孫にあたり、山背大兄王は厩戸皇子の子供にあたります。
田村皇子も山背大兄王両方とも、年齢的に30歳を超えており、健康である点は問題ありません。
問題があるのは、それぞれの両親の血統についてです。
では父母それぞれ見ていきましょう。
まず田村皇子ですが、父は上の系図にはありませんが、押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのおうじ)という王族、母も敏達天皇の娘で王族です。
つまり父親が大王でないわけです。
もう一方の山背大兄王ですが、父親は厩戸皇子で王族、母親は蘇我馬子の娘の刀自子郎女(とじこのいらつめ)であり蘇我氏です。
つまり父親が大王でないだけでなく、母親も王族ではないわけです。
この場合どちらも父親が大王ではないわけですが、どちらが王族の血が濃いかといえば、母も王族である田村皇子であるわけです。
その結果、629年に田村皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)として即位します。
しかし山背大兄王にとっては、当然面白くありません。
ここで舒明天皇と有力王族である山背大兄王は対立関係となります。
ちなみに山背大兄王など厩戸皇子の一族を上宮王家(じょうぐうおうけ)といいます。
山背大兄王は蘇我氏とも対立する
では豪族のトップである蘇我氏はどうだったのでしょうか?
蘇我氏では蘇我馬子の死後、息子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が蘇我氏を継ぎます。
しかし蘇我蝦夷は父の蘇我馬子とちがい、蘇我氏のトップとしてヤマト政権を主導した形跡があまりなかったようです。
それよりも息子、つまり蘇我馬子の孫である蘇我入鹿(そがのいるか)が蘇我蝦夷に代わって蘇我氏のトップとして主導するようになります。
実際に蘇我蝦夷は、大王位継承をめぐって田村皇子と山背大兄王が対立した際に、大王の血が濃いということで田村皇子を支持したのです。
普通に蘇我氏の権力を伸ばしたいのであれば、自分の甥(おい)にあたる山背大兄王を支持すべきですが、常識的な観点から田村皇子を支持したのです。
山背大兄王にとっては、自分の親族でありもっとも支持すべきの蘇我氏からもそっぽを向けられたわけです。
その結果、山背大兄王は舒明天皇だけでなく蘇我氏とも対立関係になります。
このあと山背大兄王は本拠地である斑鳩(いかるが)で独立王国を作っていきます。
では舒明天皇と蘇我氏の関係はどうかというと、これらも互いの血縁関係が薄いので疎遠(そえん)となります。
その証拠として舒明天皇は蘇我氏の本拠地である飛鳥(あすか)の外れに百済宮(くだらのみや)を建設してそこで政治をおこなうようになります。
つまり舒明天皇は蘇我氏と距離をおいて独自の政治をおこなおうとしたのです。
こうして舒明天皇の大王家、山背大兄王の上宮王家、そして蘇我氏という推古朝の有力勢力が並列し、対立関係となっていきます。
隋が滅亡し、唐が中国を統一する
ではつぎに、このころの東アジア情勢を見ていきます。
唐の建国と拡大
618年ですが、隋(ずい)が滅んで唐(とう)が成立します。
しかし建国した当時の唐は国内が分裂状態であり力があまり強くありませんでした。
しかし第二代皇帝である太宗(たいそう、李世民)の時代になると中国国内を統一し、さらに629年には唐の北にある突厥(とっけつ)を唐の支配下に入れることに成功します。
この突厥を支配下に入れたことは東アジア世界において衝撃的なことでした。
隋の時代でも、攻撃することができないくらい突厥は強い国だったので、先に高句麗を攻撃したわけです。
さらに唐は南にあるチベットの吐蕃(とばん)も支配下に治めることに成功し国を拡大していきます。
こうして背後を万全にしたうえで、640年代になると高句麗に攻撃をおこなったのです。
東アジアの国々は唐の侵略に対応する
このときは、高句麗のがんばりにより唐の撃退に成功しますが、東アジアの国々ではこの唐の高句麗出兵を受けて、朝鮮半島の国々でも集権化の動きがおきます。
まず高句麗は、政権NO2の権力者である淵蓋蘇文(せんがいそぶん)が、飾りの王を立てて実質的な権力を握るようになります。
一方で百済は、義慈王(ぎじおう)という王にすべての権力を集中して権力をにぎるようになります。
乙巳の変について
ではこのような東アジア情勢において、日本(倭)ではどのような動きがおきたのでしょうか?
舒明天皇が亡くなると再び大王継承をめぐってもめる
641年に舒明天皇が亡くなります。
下の系図を見ると、舒明天皇には何人かの子供がいることがわかります。
のちの皇極天皇(こうぎょくてんのう)となる王后(おうごう)との間には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)がいます。
さらに蘇我馬子の娘との間に、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)がいることがわかります。
なお舒明天皇が比較的若くして亡くなっているので、この子どもたちは10代の未成年であり、年齢的に大王に即位するには若すぎます。
しかし、かれらは大王の息子であるので、血統的には大王の条件を十分に満たしているといえます。
さらにこのなかでも古人大兄皇子は母が蘇我氏であるので、母が王族である中大兄皇子と大海人皇子の方がさらに有利です。
かれらに加えて山背大兄王が再び大王候補者となりました。
ちなみに彼はさきほど説明したように、年齢的には条件を満たしていますが、血統としては劣っています。
ちなみに蘇我氏は、蘇我蝦夷が引退して蘇我入鹿が蘇我氏の権力を引き継いでいますが、蘇我氏の血統を引く古人大兄皇子を推薦(すいせん)しています。
つまり、
- 大王家→中大兄皇子を推薦
- 上宮王家→山背大兄王を推薦
- 蘇我氏→古人大兄皇子を推薦
とそれぞれの勢力が分かれることになります。
加えてすべての人物にこれといった決め手がありません。
あえていえば中大兄皇子と古人大兄皇子は、時間がかせげれば成人となり大王に即位できます。
なお、山背大兄王は舒明天皇即位の際にもめているので、大王家としては絶対に大王にはしたくありません。
ここでつなぎとして過去の推古天皇が即位したように、舒明天皇の王后がつなぎとして皇極天皇(こうぎょくてんのう)として即位することになります。
(推古天皇即位の経緯はこちらの記事をご覧ください)
蘇我入鹿と大王家が手を組んで上宮王家を滅ぼす
こうして皇極天皇が即位したわけですが、3つの勢力の対立関係はまったく変化ありません。
しかし東アジア情勢で、巨大国家である唐が高句麗侵略をおこなう中、日本でも一つの勢力にまとまる必要がありました。
そこで大王家と蘇我氏が手を組んで、共通の敵対勢力である山背大兄王率いる上宮王家を滅ぼします(643年)
上宮王家が滅びると、今度は大王家と蘇我氏が対立することになります。
ここでもし蘇我氏が勝利すれば、古人大兄皇子を飾りの大王とし、NO2の実力者である蘇我入鹿が権力を握る高句麗タイプの政治がおこなわれることになります。
一方で大王家が勝利すれば、皇極天皇や中大兄皇子にすべての権力が集中する百済タイプの政治となります。
この政治手法をめぐる大王家と蘇我氏の対立がこれから起こる乙巳の変(いっしのへん)の背景となります。
乙巳の変は蘇我氏一族の裏切りで成功した
ちょっと聞きたいんだけど乙巳の変ってなに?もしかして蘇我入鹿暗殺のこと?これって「大化の改新」というんじゃないの?
すこし誤解しているようだね。説明するよ。
あなたは中学校の社会科で蘇我入鹿暗殺とそのあとの政治をいっしょに「大化の改新(たいかのかいしん)」であると習いませんでしたか?
でも高校の日本史の授業では、蘇我入鹿暗殺事件を乙巳の変(いっしのへん)、その後の政治については大化の改新と明確に分けています。
こうして645年7月10日、蘇我入鹿暗殺事件である乙巳の変が起こります。
ある儀式の際に中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)たちによって蘇我入鹿が暗殺されたのです。
乙巳の変のあとに蘇我蝦夷は自害し、古人大兄皇子も中大兄皇子に攻められて自害します。
これで蘇我氏は滅亡となります。
ちょっと待って!大王家側に蘇我倉山田石川麻呂って人がいるけど、これって蘇我氏の人じゃないの?
失礼しました。乙巳の変では蘇我氏の人の一部も大王家側に入っています。
この蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)は、蘇我入鹿のいとこ、つまり蘇我蝦夷の甥(おい)にあたる人物です。
(蘇我倉山田石川麻呂で長すぎるので、この記事では「石川麻呂」で表記します)
この蘇我氏側であるはずの石川麻呂が裏切ったからこそ乙巳の変は成功したともいえます。
ではなぜ石川麻呂は蘇我氏を裏切って大王家側についたのでしょうか?
それは石川麻呂が蘇我氏の「馬子→蝦夷→入鹿」という親子継承に批判的であったためです。
なぜなら石川麻呂は、大王の位は30歳以上という年齢条件もあり兄弟継承がおこなわれているならば、蘇我氏のトップもこれに見習って兄弟継承すべきと考えていたからです。
これは石川麻呂以外の蘇我氏の人々も思っていたことであり、実際に蘇我蝦夷の弟のひとりが親子継承を批判したために粛清されています。
このような理由から、石川麻呂は蘇我氏のひとりであるにもかかわらず、裏切って敵対する大王家側に入ったのです。
よって乙巳の変で滅びたのは、正式には蘇我氏本家ということになります。
こうして蘇我氏本家が滅亡したあと、皇極天皇は大王を退位し、その弟である軽皇子(かるのおうじ)が孝徳天皇(こうとくてんのう)として即位します。
ちなみに皇極天皇が、記録上、亡くなる前に天皇を退位した最初の天皇となります。
乙巳の変の真の黒幕は誰なのか?
ちょっと疑問に思ったんだけど、なんで蘇我入鹿を倒した中大兄皇子が即位しなかったの?なんで軽皇子というちょい役が即位したの?
まあ、その時の中大兄皇子の年齢が10代であったことがあるよね。
でもそれならば、皇極天皇がつなぎとしての大王を継続したらいいじゃん!別にやめなくていいのに…
確かにそうだよね。
ではこの疑問を解決するために、ある研究者が出した説があるので教えます。
ただしある一説であり、受験では出てこないので参考として読んでください。
ここでポイントとなるのが、このあとの大化の改新という政治改革が646年から649年にかけておこわれているということです。
この間の大王は孝徳天皇となります。
そして649年以降は改革が止まり、663年の白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)以降に改革が再びおこなわれます。
ではなぜ政治改革が止まったかというと、ある研究者は、大化の改新は孝徳天皇と蘇我倉山田石川麻呂が中心でおこなったからではないかと説明しています。
ところが649年に石川麻呂が謀反(むほん)の疑いをかけられて殺されているのです。
つまり大化の改新を進めていた石川麻呂が殺されたから、大化の改新が止まったのではないかとしているのです。
では石川麻呂を謀反の疑いで殺した人物はだれかというと、中大兄皇子です。
中大兄皇子は石川麻呂や孝徳天皇と対立していたので、石川麻呂を殺したのです。
さらにこのあとは孝徳天皇も病気で亡くなります。
すると中大兄皇子が権力を握ることになり、本来ならば政治改革は進むはずですが、649から政治改革が止まってしまいます。
この理由として、ある研究者は645年に起こった乙巳の変も孝徳天皇と石川麻呂が中心となって計画して実行したではないかとしています。
つまり孝徳天皇こと軽皇子が乙巳の変の首謀者だから、皇極天皇のあとの大王の位を継いだわけです。
では孝徳天皇と石川麻呂が亡くなったあとに、中大兄皇子に権力を持ったにも関わらず政治改革が止まった理由は、中大兄皇子に政治改革をやる気がなかったからです。
中大兄皇子は大化の改新のような政治改革に反対であったということです。
そして663年に白村江の戦いで唐や新羅に大敗北したことにより、国防の必要に迫られて政治改革を始めたわけです。
つまり大化の改新を主導したのが孝徳天皇と石川麻呂であるならば、その前の段階の乙巳の変を主導したのも孝徳天皇と石川麻呂であるわけです。
ある研究者とは遠山美都男(とおやまみつお)さんという方で、これまでの説は遠山さんの研究によるものです。
この理由で皇極天皇が亡くなったあとに息子の中大兄皇子ではなく、弟の軽皇子が孝徳天皇として即位したことにも納得できるかと思います。
しかしこれはあくまでも一説であり、受験においては出ませんのでご了承ください。
まとめ
- 推古天皇の死後、大王の位をめぐって敏達天皇の孫の田村皇子と厩戸皇子の息子の山背大兄王が争ったが、629年、血統がいい田村皇子が舒明天皇として即位した。
- この争いにより、舒明天皇の大王家、山背大兄王の上宮王家、蘇我氏へと権力が分かれた。
- 中国では隋が滅亡して唐が建国されたが、唐は隋よりも強大であるため東アジアの国々では集権化政策がおこなわれた。
- 641年の舒明天皇の死後は、妻の皇極天皇が即位したが、643年に蘇我入鹿は日本の集権化のために大王家と組んで上宮王家を滅ぼした。
- さらに大王家の中大兄皇子と中臣鎌足は、645年に蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変を起こすが、成功した背景には蘇我氏の蘇我倉山田石川麻呂が大王家に内通したことが一因である。
- 一説に乙巳の変を起こしたのは、のちの孝徳天皇と蘇我倉山田石川麻呂であるという考えもある。
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