日本史

【白村江の戦い】唐・新羅と戦争したのは、中央集権化による日本の過信であった!

白村江の戦いが起きたのは、唐に滅ぼされた百済の旧臣は復興運動を起こし、日本(倭)に援軍要請しこれに応じたからである。援軍要請に応じたのは、百済が長年の友好国であるのに加えて、中央集権政策がうまくいっており勝利できると過信していたからである。
日本史

【大化の改新】孝徳天皇と石川麻呂によっておこなわれた中央集権政策!

646年から649年の間におこなわれた大化の改新という政治改革は、孝徳天皇と蘇我倉山田石川麻呂によっておこなわれた。そのポイントは大王による中央集権体制を進めることであった。よって地方の有力な地方豪族である国造を解体した。
日本史

【乙巳の変】中央集権化の方針をめぐる大王家と蘇我氏との対立!

隋の滅亡すると、より強大な唐が建国された。東アジアの集権国家では唐に対抗するため中央集権がおこなわれたが、日本では大王家、上宮王家、蘇我氏が分裂していた。蘇我入鹿は大王家と組んで上宮王家を滅亡させるが、入鹿も大王家の中大兄皇子らによって殺害される。
日本史

【第二回遣隋使】推古朝は隋との平等外交を目指したわけではなかった!

607年、小野妹子を使節として第二回遣隋使が送られた。この遣隋使で隋に朝貢はおこなうが、称号などの冊封を受けない姿勢をとった。その理由として朝鮮半島において敵対する新羅よりも有利な立場に立つためであった。
日本史

【冠位十二階と憲法十七条】推古朝は遣隋使派遣を念頭に政治改革をおこなった!

600年に第一回遣隋使が派遣されるが中国風の政治制度を持たない倭は国交を断られる。そのため推古朝は中国風の広場をもつ小墾田宮を建設したり、中国風の序列である冠位十二階を定めた。さらに豪族に官僚としての自覚を持たせるために憲法十七条を施工した。
日本史

【推古天皇と厩戸皇子】なぜ女帝が誕生し、厩戸皇子が政治を補佐したのか?

推古天皇が即位した背景には、約300年ぶりに中国で隋という統一王朝が誕生したことにあった。隋に対抗するため蘇我馬子は、蘇我氏血縁者だけで国内改革をおこなう必要があると考え、蘇我氏血縁者である推古天皇や厩戸皇子とともに政治をおこなおうとした。
日本史

【飛鳥時代】推古天皇が蘇我氏の開発地である飛鳥に政治の中心を移す!

飛鳥時代は、推古天皇が蘇我氏の開発地である飛鳥に政治の中心を移したことで始まった。蘇我氏がヤマト政権内で台頭した背景には、部下に渡来人が多いことと、欽明天皇と外戚関係を結んだことにあった。ここでは日本史学習における系図の重要性も教えます。
日本史

【古墳時代の終末】古墳が権力者のモニュメントから家族の墓に変化した

古墳時代後期になると、大王の権力が充分に大きくなったことで、「モニュメント」としての大規模な古墳の意味がなくなった。こうして古墳は「家族の墓」としての意味合いが強くなった。代わって仏教の寺院がモニュメントとして作られるようになった。
日本史

【国造制と部民制】地方支配を任せる制度と権力者たちが民衆から税をとる制度!

国造制とは大王が有力地方豪族に地方支配を任せる制度であり、部民制とは大王・王族・豪族それぞれが庶民から税をとる制度です。これらは密接な関係がありました。それはかれらが税をとる部民が国造が支配するクニのなかにいたからです。
日本史

【氏姓制度】豪族に氏名(うじな)と姓(かばね)を与えて大王の権力を高めた!

大王は豪族に氏(うじ)という血族の集団ごとに氏名(うじな)を与えたり、ヤマト政権における序列を示す姓(かばね)を与えた。これにより大王は自分の権力を高めた。さらに臣や連を持つ豪族は、ヤマト政権の国政運営に参加することが許された。
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