日本史

【長屋王の変】藤原四子の標的は長屋王でなく、その息子たちであった!

聖武天皇は藤原光明子との間に阿倍内親王という女の子しか産まれないため、後継者問題が発生した。さらに安積親王や長屋王の息子たちも後継者候補となった。そこで藤原四子は藤原光明子の立后を主張するが長屋王から反対され長屋王の変が起こる。
日本史

【奈良時代の女帝】聖武天皇が成長するまでの中継ぎで女帝が誕生した!

持統天皇が文武天皇の政治体制を整えたが、文武天皇は若くして死去する。文武天皇には息子の聖武天皇がいたが幼少であったため、中継ぎの天皇として文武天皇の母が元明天皇、妹が元明天皇に即位した。それが奈良時代に女帝が多い理由である。
日本史

【草壁直系】持統天皇の執念によって奈良時代の皇位継承の形式が作られた!

持統天皇が即位したのは、草壁皇子の息子の文武天皇が即位するまでのつなぎとしてである。このことから皇位継承は草壁皇子の子孫、つまり草壁直系でおこなわれることになる。さらに持統天皇は自分が亡くなったあとの補佐として、藤原不比等と長屋王を置いた。
日本史

【大宝の遣唐使】日本は新羅と緊張関係になったから遣唐使を復活させた!

奈良時代の外交関係で重要なのは、日本、唐、新羅、渤海の関係性である。日本が遣唐使を復活させた要因は、唐と新羅の関係が良好になったことで、日本と新羅が緊張関係となったためである。さらに8世紀になると、東アジアでの孤立化を恐れた渤海が日本へ朝貢するようになった。
日本史

【奈良時代】平城京をはじめとする律令国家の不具合の塗り替えをした時代!

奈良時代とは8世紀の平城京に都があった時代のことである。なぜ藤原京から平城京に遷都したかというと、藤原京の形状や配置が、実際の唐の長安とかけ離れていたいたためである。平城京を造る人夫の給料として和同開珎が新しく作られた。
日本史

【班田収授と税】生活保障のために口分田を配ったが、それを超える重税だった!

中央(ちょうてい)は人民の最低限の生活保障のために、戸籍に登録された人民に口分田という田地を配った。そしてそれと同時に人民に人頭税中心の重税も負担させた。とくに庸・調を中央(朝廷)まで運ぶ運脚は自弁で行う必要があり餓死が出るほどであった。
日本史

【律令国家の戸籍】徴兵を行うために人為的に組まされた郷戸単位で作った!

律令国家の戸籍は郷戸単位で作成された。郷戸とは1郷戸につき成人男性である正丁が3~4人含むように2~3家族くらいを人為的に組まされたものである。その目的は1郷戸からひとりを確実に徴兵するためである。この郷戸は徴税にも転用され、人頭税となった。
日本史

【律令官人制】貴族と下級官人は蔭位の制により実質の世襲制となった!

律令国家に仕える官人はかならず30段階ある位階のどれかに所属した。そして五位以上の官人を貴族といい、貴族の中でも三位以上の貴族を公卿という。そして貴族には蔭位の制が適用されたので、貴族の子供や公卿の子供・孫はある程度高い位階からスタートできた。
日本史

【律令国家の地方行政】国司は朝廷と伝統的支配者の郡司との間で政治をおこなった!

地方行政においては、中央から派遣された国司と地方を伝統的に支配した元国造である郡司がいた。郡司が地方行政の実績があるので、国司は基本的には郡司に地方行政を任せたが、律令に沿った地方行政をおこなうように郡司に命令した。
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【律令国家の中央行政】太政官を中心に政策決定したが、天皇の決済が必要だった!

都城には二官八省一台五衛府という中央行政をおこなう機関がありました。その中心は太政官で、そのなかでも議政官によって朝廷の政策決定がおこなわれた。しかしそのあと天皇による決済がおこなわれなければ政策を実行することはできなかった。
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