【壬申の乱】軍事クーデターであるとともに、唐羅戦争の代理戦争でもあった!

壬申の乱アイキャッチ 日本史

はじめに

あなたは壬申の乱(じんしんのらん)というとどのようなイメージでしょうか?

天智天皇が亡くなったあとに、弟の大海人皇子が天智天皇の息子である大友皇子と戦って華々しく政権を打ち立てたイメージでしょうか?

大海人皇子が行軍の途中で兵士たちに桃を配った場所は、桃配山(ももくばりやま)となり、1600年の関ヶ原の合戦においては、勝利した大海人皇子にあやかって徳川家康が本陣を置いています。

しかし実際の大海人皇子は、華々しいものとは言えないものでした。

この記事では、本当の壬申の乱の姿について説明します。

壬申の乱は大王に対して起こした軍事クーデターである

ここでは壬申の乱(じんしんのらん)が軍事クーデターの一面を持つことについて説明します。

壬申の乱の基本情報

まず、壬申の乱の基本情報から説明します。

起こったのは672年で、戦ったのは大海人皇子(おおあまのおうじ)と大友皇子(おおとものおうじ)です。

大海人皇子は天智天皇から見ると弟であり、大友皇子は天智天皇から見ると子供になります。

そして壬申の乱の結果、大海人皇子が大友皇子に勝利し、勝った大海人皇子は天武天皇(てんむてんのう)として即位します。

これが一般的な壬申の乱の基本情報です。

天智天皇のあとの大王は大友皇子であった

この壬申の乱の特徴について、あなたは「天智天皇が亡くなったあとの権力争いで大海人皇子が勝利して天武天皇になった」と習ったかもしれません。

しかしその説明では、はっきりいって不十分です。

じつは天智天皇が亡くなる前、次の大王として大友皇子を指名しており、実際に大王に即位したと考えられています。

実際に1870年、明治政府は大友皇子の即位を認めて、弘文天皇(こうぶんてんのう)と諡号(しごう。死後に与えられる天皇名)しています。

教科書でも「大友皇子(弘文天皇)」とかかれています。

では大王となった大友皇子はどのような人物かというと、とても優秀な人物であったようです。

しかしながら、即位当時の年齢は20代であり、母親も地方豪族の娘という身分の低い人物でした。

しかし当時の大王の条件として、

  • 血筋がいいこと。父が大王であるのはもちろんだが、母も王族であることが理想。王族でなくとも血筋の良い人物であること。
  • 年齢が30歳を超えていること。
  • 健康で政治をおこなう能力があること。

がありました。

しかし大友皇子は、能力的には問題はありませんが、年齢と母親の血筋という点で問題がありました。

それにもかかわらず天智天皇は、息子である大友皇子を次の大王に指名して、大友皇子は実際に即位してしまったわけです。

大海人皇子は大王に対して軍事クーデターを起こした

このことについて天智天皇の弟である大海人皇子が不満を持っていたと考えられています。

そして不満に思う大海人皇子は、大王である大友皇子に対して軍事クーデターを起こしたのではないかと考えられています

学ぶ一般人
学ぶ一般人

軍事クーデターって…大げさすぎないですか…

だるま先生
だるま先生

大王に軍事的に反乱を起こしたんだから軍事クーデターでしょ。このことは研究者が言っていることだし、証拠もあるよ。

それは壬申の乱の情報源となっているのが、日本書紀(にほんしょき)であるということです。

奈良時代に完成した日本書紀には、古代に関する情報が書かれており、もちろん壬申の乱の情報も書かれています。

しかしながら、ほかの戦争に関する情報と比べて壬申の乱についてだけとても長く詳しく書かれているのです。

怪しくありませんか?

さらに日本書紀の責任者は、天武天皇、つまり大海人皇子の子孫です。

自分の先祖のことを軍事クーデターを起こした悪い人物と書く子孫はいませんよね。

つまり日本書紀にある壬申の乱については、都合のいいように内容を書き換えている、つまり印象操作をおこなっている可能性が大きいといえます。

このことが大海人皇子が軍事クーデターを起こした証拠です。

壬申の乱の背景には、唐と新羅の対立にあった

では壬申の乱が大海人皇子による軍事クーデターとすると、反乱軍である大海人皇子が勝利したことになります。

ではなぜ反乱軍である大海人皇子が、大王となった大友皇子に勝利することができたのしょうか?

その背景にあるのが、東アジアで670年から676年までおこなわれた唐(とう)と新羅(しらぎ)の戦争、つまり唐羅戦争(とうらせんそう)です。

そして672年に壬申の乱が起こっています。

つまり唐羅戦争の最中に壬申の乱が起こっているというか、唐羅戦争の最中だからこそ国内で壬申の乱という戦争をすることができるのです。

なぜなら、唐や新羅という外敵が攻めてくるかもしれない時に、国内で戦争ができるわけありません。

つまり唐と新羅が戦争していて日本(倭)に攻撃する余裕がないと知っていたからこそ、壬申の乱という戦争をおこなうことができたのです。

ただし、唐と新羅はそれぞれ日本(倭)を自分の陣営に引き入れるために友好関係を結ぼうとします。

このとき、大友皇子はに味方すべきという立場を取っていたようです。

常識的に考えれば、正しい決断といえます。

なぜなら、唐のほうが新羅と比べて経済力も軍事力も圧倒的に上であり、絶対に勝利すると確信してもおかしくありません。

実際に671年に大友皇子は新羅への出兵を計画しています。

しかし、多くの日本人の気持ちは、唐と友好関係を結ぶことは反対でした。

なぜならば、663年の白村江の戦いで日本と戦った大部分は唐の軍隊であり、西日本を中心として親や兄弟といった親族を殺されているからです。

つまり白村江の戦いから10年も経っていない状態であり、常識的にはわかりながらも日本の人々には感情面で唐を許せない気持ちが強かったわけです。

そのような日本人の感情をうまく利用したのが大海人皇子です。

大海人皇子は新羅に味方すべきという立場をとることになります。

大海人皇子が大友皇子に勝利した要因として、唐に反感をもつ日本人を自分の味方に引き入れたことが背景にあると考えられます。

つまり大海人皇子は唐羅戦争という状況を利用して壬申の乱に勝利したということです。

大海人皇子の行動について

では実際に大海人皇子が壬申の乱においてどのように行動したかを説明します。

大海人皇子は大友皇子に不満がある豪族を味方に引き入れた

まず大海人皇子が挙兵したのは、奈良県南部にある吉野(よしの)という場所です。

この吉野は、のちの南北朝時代に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が南朝の本拠地とした場所です。

大海人皇子は出家して、吉野で隠遁(いんとん)生活を送っていたのです。

大海人皇子は挙兵すると、近江大津宮に向かう際は最短距離である北上したわけではありません。

あえて西にある伊勢(三重県北部)、尾張(愛知県北部)、美濃(岐阜県西部)を遠回りしてから近江大津宮に向かったのです。

なぜそうしたかというと、大友皇子に不満を持つ豪族を味方に引き入れながら近江大津宮へ向かったからです。

大海人皇子が勝利した要因として、美濃と近江大津宮の間にある不破関(ふわのせき)という関所を封鎖したこともあるといわれています。

不破関を封鎖することで、近江大津宮に向かう大友皇子方の東国の兵士の侵入を妨害したわけです。

道中に祈った伊勢の神様のために伊勢神宮を作る

大海人皇子は味方を集めるために伊勢に立ち寄ったときに、地元の伊勢の神に戦勝祈願をおこないます。

そして大海人皇子が壬申の乱に勝利した時、よほどうれしかったのか伊勢の神を祀る(まつる)神社を整備します。

それが伊勢神宮(いせじんぐう)です。

この伊勢神宮に対して大海人皇子は、自分の娘を斎宮(さいぐう)として仕えさせるほど厚遇しました。

大海人皇子がこれほど伊勢神宮を大事にしたのは、軍事クーデター成功で大王になっている状態で、自分の正当性に不安を持っていたからです。

よって大海人皇子は伊勢神宮を厚遇することで、神の権威を使って、自分も権威を得たかったのだと考えられています。

まとめ

  • 研究者の説では、天智天皇は息子の大友皇子を後継の大王と考えており、大友皇子は大王に即位した可能性が高い。
  • そのため大海人皇子の挙兵は軍事クーデターの可能性が高いとされている。
  • 672年の壬申の乱の背景には、唐と新羅の対立、つまり唐羅戦争があり、唐と新羅それぞれ日本(倭)を自分の味方に引き入れようとした。
  • 大友皇子はとの関係を深くし、大海人皇子は対抗上、新羅との関係を深くした。
  • 多くの日本人は、663年の白村江の戦いで唐の軍隊に親族を殺されたことを恨んでおり、そのため壬申の乱では大海人皇子に有利となった。

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