はじめに
あなたは、旧石器時代(きゅうせっきじだい)がいつの時代か説明できますか?
すこし歴史を知っているならば、石でできたヤリを持った人々が、マンモスを追いかけている姿を想像するかもしれませんね。
でもかれら旧石器時代の人々、つまり旧石器人(きゅうせっきじん)が具体的にどのような生活を送っていたかというと知らない人も多いかもしれません。
今回は旧石器時代における旧石器人の生活について説明します。
原始時代について
ここでは原始時代について説明します。
原始と古代の時代区分
まず旧石器時代について説明する前に、歴史の区分である「原始時代(げんしじだい)」と「古代(こだい)」の違いについて説明します。
ちなみに原始時代とは、旧石器時代・縄文時代・弥生時代を指し、古代とは、古墳時代・奈良時代・平安時代中期を指します。
ちなみに平安時代中期とは藤原摂関政治の時代までであり、白河上皇(しらかわじょうこう)の院政期からは中世(ちゅうせい)に区分されています。
なぜそうなるかは、中世の最初の記事が掲載されたときにあらためて説明します。
原始時代と古代は文字資料の有無で分けられる
では原始時代と古代を分けるポイントはなんでしょうか?
そのポイントとは、日本国内に文字資料があるかないかの違いです。
つまり、原始時代では日本国内に文字史料がないのに対して、古代では日本国内に文字史料があることです。
ちなみに朝鮮半島から文字、つまり漢字が伝わったのは5世紀ころといわれています。
よって5世紀ころが原始と古代の分かれ目といえます。
考古学の成果で原始時代の生活を知った
では文字資料がない原始時代の人々の生活を調べるのでしょうか?
それは考古学(こうこがく)という学問の成果によるものです。
考古学とは、過去の人類が残した遺跡(いせき)という過去の場所や、遺物(いぶつ)という過去の物を研究する学問です。
また遺跡から出土する人骨も考古学にとって重要なものです。
このように原始時代において、「〇〇遺跡」という遺跡名が頻繁に出るのは、考古学でしか原始の生活を調べられないからです。
ただし弥生時代になると、中国王朝との交流が始まるため、中国王朝側の史料から日本人の生活がわかるようになります。
旧石器時代の気候
まず原始時代全体のポイントとなるのは、気候の変動です。
このことを頭に入れてください。
では本題である旧石器時代について説明します。
はじめに、いつごろから日本に人々が存在したかというと、今から3万8000年前ころからです。
そして旧石器時代の「旧石器」とは石を割って作った道具である打製石器(だせいせっき)のことであり、旧石器時代とは打製石器を使っていた時代を指します。
ではなぜ打製石器という道具が時代名になるくらい重要なのでしょうか?
この問題を解くポイントとなるのが、旧石器時代が氷河時代(ひょうがじだい)であったということです。
つまり旧石器時代の気候は、現在と比べてとても寒かったということです。
現代と比べると、気温が7〜8度も低い状態で、ちょうど東京が北海道のような状態です。
旧石器時代の人々の食料について
ではこのような氷河時代で生活する旧石器時代の人々はどのようなものを食べていたのでしょう?
まずは人々が自然にある食料(自然食材)を得る方法として、
- 動物を得る狩猟(しゅりょう)
- 魚介類を得る漁労(ぎょろう)
- 草や木の実を得る採取(さいしゅ)
の3つがあります。
これらの方法が氷河時代の日本でも可能であるかを見てみましょう。
氷河時代に漁労や採集はほとんど不可能
まず旧石器時代は氷河時代です。
よって川や海の水も氷になって減るし、少ない水でさえ氷水のように冷たいわけです。
そんな氷水に入って魚を捕る、つまり漁労はできるでしょうか?
そんなの罰ゲームだよ。下手したら死んじゃうよ。
そうだね。あと氷水に住む魚や貝も少ないだろうしね。
だから氷河時代の日本で、漁労は不可能と考えられます。
だから教科書で貝殻を捨てたゴミ捨て場として貝塚(かいづか)遺跡がでてきます。
しかし貝塚は水温があたたかい縄文時代のものであり、旧石器時代には存在しません。
つぎに氷河時代の植生(しょくせい)、つまりどのような植物が生えていたか見ていきます。
氷河時代には葉っぱが広くて、たくさんの木の実ができる広葉樹(こうようじゅ)はありません。
氷河時代の植生は、マツやスギといった葉っぱが細い針葉樹(しんようじゅ)が中心です。
シベリアのタイガという針葉樹の林を写真で見た方もいるかもしれませんが、そのような光景です。
この針葉樹は名前の通り葉が細いので、食べるのに十分な大きい木の実はできません。
だから氷河時代の日本では、採集は少しは可能ですが腹を満たすことはできません。
じゃあどうやって食べ物を得たの?このままじゃ飢え死にだよ。
ひとつ忘れていませんか?動物の肉を食べる、つまり狩猟なら腹を満たす食料が得られます。
氷河時代は大陸と日本列島がつながっていた。
ではなぜ狩猟ならば可能だったのでしょうか?
そのポイントとなるのも、旧石器時代が氷河時代であるということです。
氷河時代は、地表に氷や雪が残るため海に流れ込む水の量が少なくなり、海水面も低くなっていました。
すると現在よりも陸地が多くなります。
下の図の茶色の部分が旧石器時代に陸地であった部分です。
この図ではわかりにくいので詳しく説明します。
まず北海道の北にある樺太(からふと)は西の中国大陸とつながっており、北海道ともつながっていることがわかっています。
ちなみに北海道と本州の間の津軽海峡は水深が深いのでつながっていませんが、距離が短いので船を使って行き来できたようです。
そして本州・四国・九州は陸続きでつながっています。
なお、朝鮮半島と九州の間ですが、ヒザ下くらいの水深であったために歩いて渡れたようで、大陸と九州は陸続きでした。
氷河時代の大型動物について
そのため旧石器時代には、大陸から大型動物(おおがたどうぶつ)が日本列島に渡ってきていました。
この大型動物の代表として、マンモスやナウマンゾウといった象(ぞう)がいます。
なぜ象を出したかというと、象は泳げないからです。
つまり、現在において日本から大陸由来の象の骨が出土するということが、旧石器時代に大陸と日本列島がつながっていた証拠となるのです。
これで旧石器時代の人々の食料もわかりますね。
旧石器時代の人々は、象などの大型動物を狩って食料にしていたのです。
そして大型動物を狩るのに使ったのが、旧石器=打製石器です。
これが冒頭の「なぜ打製石器が旧石器時代とよばれるほど重要であるか」の答えです。
つまり旧石器=打製石器が、当時の人々の食料を得るための必需品であるから旧石器時代と名付けられたのです。
旧石器時代は移住生活
大型動物を狩って生活する旧石器時代の人々は、つねに固定の家を持たない移住生活でした。
なぜならば食材である大型動物は動物なので、つねに地上を移動しているからです。
そして移住生活は、旧石器時代の人々が使う道具にも大きな影響を与えました。
こわれやすい土器は使用されなかった
まず移住生活であるので、土器は使用されませんでした。
えっ!旧石器時代って土器はなかったの?土器があれば食材を煮炊きできるし便利じゃないの?
旧石器時代の人々は、土器は使わなかったんだよ。
なぜなら土器は結構重いし、とても割れやすいので、持ち歩くことに向いていないからです。
そのため旧石器時代は、別名を先土器時代(せんどきじだい)、つまり土器を使う前の時代ともいわれています。
では土器が使用されるのはいつかというと、気候が暖かくなって採集や漁労も可能になり、定住生活になることで、家を建ててそこで保管できるようになってからです。
つまり縄文時代(じょうもんじだい)になってからです。
打製石器はしだいに小型化していった
さらに移住生活では、重い石器をもって移動することも重労働となります。
そのため打製石器は、時代がたつごとに、しだいに小さくなっていきます。
でも打製石器ってマンモスとかの大型動物を狩る道具だよね。小さくしていって大丈夫なの?
だから小さくしても大丈夫なように工夫をしたんだよ。
たとえば、小さいながらも石器の先を鋭く(するどく)加工することで大型動物を出血させることで倒しやすくしました。
たとえば下の図にある打製石器のように、「握斧→尖頭器・ナイフ形石器→細石器」という順番に変化しました。
重い握斧から小型のナイフ形石器へとしだいに軽く鋭くなっていることわかります。
ちなみに細石器(さいせきき)ですが、中国東北部からシベリアあたりで発達したもので、「樺太→北海道→本州」へと伝わりました。
細石器とは文字通り、小さな石の刃(やいば)であり、木に取り付けて使用しました。
さらに刃が少し磨かれているのが特徴で、縄文時代の磨製石器(ませいせっき)の原型となったものです。
旧石器時代の遺跡
ここでは、旧石器時代の遺跡について説明します。
岩宿遺跡の発見
旧石器時代の遺跡でもっとも重要なものとして、岩宿遺跡(いわじゅくいせき)があります。
なぜ岩宿遺跡が重要かというと、この遺跡が見つかる前は、日本に旧石器時代は存在しないといわれていたからです。
なぜならば旧石器時代にあたる今から38000年前から15000年前は氷河時代で、さらに当時の日本列島では火山活動がさかんで地上に火山灰が降り積もっていました。
つまり思い込みで、考古学研究者たちの間でこんな過酷(かこく)な状況で人間が存在するはずはないと考えていたのです。
さらに火山灰が酸性なので、人骨が溶けて発見されにくいことも原因でした。
そのため当時の発掘調査では赤土(火山灰層)から遺物は出土しないと考えられて調査しないことになっていました。
しかしある石器大好きの相沢忠洋(あいざわただひろ)という素人の青年によって、常識が変えられることになります。
この相沢が、1946年、群馬県岩宿にある関東ローム層という赤土の中から打製石器を発見したのです。
つまり相沢は考古学研究者ではない素人なので、赤土でも構わず掘ったわけです。
そして相沢は明治大学の考古学研究室に発見した打製石器の調査を依頼します。
すると旧石器時代の正式な打製石器であることがわかったのです。
このことを受けてほか考古学研究者たちも、日本全国の赤土を調べたところ、旧石器時代の石器や人骨がたくさん見つかりました。
つまり日本の旧石器時代は、プロの考古学者ではなく、素人の相沢忠洋という青年によって発見されたのです。
ほかの旧石器時代の人骨・遺跡について
こうして日本全国で発見された旧石器時代の遺跡は、10,000箇所ほどあります。
しかし旧石器時代の人骨については日本列島内ではあまり多くありません。
なぜならば火山灰である赤土は酸性であり、人骨は溶けてほとんど残らないからです。
本州・四国・九州で残っているのは、静岡県の浜北人骨(はまきたじんこつ)くらいです。
その一方で沖縄県などの南西諸島では火山活動が無いため、多くの人骨が残っており、沖縄県の港川人骨(みなとがわじんこつ)や山下町洞穴(やましたちょうどうけつ)が有名でした。
しかし近年で一番注目されているのは、石垣島にある白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)にある人骨です。
この遺跡は2007年に新しい石垣空港を作る工事中に発見されたのですが、旧石器時代の墓跡とされています。
さらにここで見つかった人骨は、全身の骨格が残っており、いまから27000年前の人骨とされています。
これまでは港川人骨が日本で最も古い時代の人骨とされてきましたが、それよりもさかのぼれる人骨として現在注目されています。
まとめ
- 旧石器時代は氷河時代であり、漁労は行われず、針葉樹が中心であるため、旧石器人は大型動物を狩って生活をしていた。
- 旧石器時代は大型動物を追う移動生活であったため、土器は使用されなかった。
- 狩りの道具である打製石器は軽く、より鋭く進化した。
- 相沢忠洋による岩宿遺跡の発見により日本に旧石器時代が存在したことがわかった。
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