【稲作伝来】寒冷化により日本は採集生活から農耕生活に変わる!

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はじめに

今回から弥生時代(やよいじだい)について説明します。

弥生時代で、いちばん最初に頭に浮かぶのは水田稲作、つまり「米づくり」ではないでしょうか。

現在では、パンとかラーメンとかさまざまな主食がありますが、一昔前まではお米、つまりごはんが主食でした。

また江戸時代までは税の大部分をお米で支払っているほど重要なものでした。

ではこのように大事なお米が採れる水田稲作はうつ、どのようにして日本にやってきたのでしょうか?

今回は日本にいつ、どのようにして、なぜ水田稲作が伝えられたかを説明していきます。

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弥生時代とはなにか?

まず弥生時代(やよいじだい)の「弥生」とは土器の種類のことです。

つまり明治時代に東京都文京区の弥生町(やよいちょう)で、縄文土器とはちがう特徴をもつ土器が見つかりました。

その土器を弥生土器(やよいどき)とよばれて、弥生土器の時代であるから「弥生時代」となったわけです。

つまり縄文土器と弥生土器という土器の違いから、「縄文時代」と「弥生時代」と区別してわけです。

しかし現在では研究が進み、弥生時代の時期は、「日本に水田稲作をはじめとする農耕文化が広がった時期」であることが有力となっています。

それほど水田稲作が日本に広がった影響力が強かったというわけです。

このように水田稲作を中心とした農耕文化を弥生文化(やよいぶんか)といいます。

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水田稲作は2800年くらいに本州・四国・九州に伝わった

では水田稲作はいつどのように日本に広がっていったのでしょうか?

水稲稲作のはじまった時期

この日本における水田稲作のはじまりについては、考古学界においても議論があってよくわかりません。

科学的な年代測定法としてC14放射性炭素測定法があります。

これは生物が亡くなると、一定の割合でC14放射性炭素が無くなることを利用した測定法です。

これにより、国立歴史民俗博物館で弥生時代の土器を調べたところ、日本に水田稲作が伝わったのはいまから3000年前としています。

しかしながら、今から約2800〜2500年前くらいに水田稲作が伝わったことが考古学界の主流の説とされています。

しかし水田稲作は、日本全体にくまなく広がったわけではありません。

日本は弥生文化・続縄文文化・貝塚文化の3つが存在した

本州・四国・九州には水田稲作は広がりましたが、北海道と沖縄をはじめとする南西諸島には稲作文化は一応は伝わりましたが定着しませんでした。

なぜならば北海道と南西諸島は水田稲作に向いていない場所だからです。

本来稲(いね)とは南国の植物であり北海道の寒い地域では思うように稲を育てられません。

また南西諸島では、島で河川が短いので稲をそだてる真水が少ないですし、稲の天敵である台風が多いので向かないのです。

学ぶ一般人
学ぶ一般人

あれでも北海道って、今だと新潟県に続いて米が多く収穫できるんじゃなかったっけ?

だるま先生
だるま先生

それは明治時代以降、米の品種改良がおこなわれて寒さに強い品種が開発されたからなんだ。

では北海道や南西諸島はどうしたかというと、縄文時代の生活をそのまま続けたのです。

なぜならばこれらの地域は大自然が広がっており、水田稲作に頼らなくとも自然食材を採集して生活できたからです。

つまり、あえて向いていない水田稲作を行う必要がなかったわけです。

そして北海道では続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)、南西諸島では貝塚文化(かいづかぶんか)として採集生活がつづくことになります。

このように弥生時代の日本では、

  • 本州・四国・九州の弥生文化
  • 北海道の続縄文文化
  • 南西諸島の貝塚文化

という3つの文化圏が存在していたことになります。

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水田稲作を中心とする大陸の文化は寒いから伝わった

ではここではどのようにして水田稲作の技術が伝わったかを説明します。

九州北部に人間が移動したのは寒いから

まず水田稲作が伝わったと説明しましたが、「伝わった」ということは人間の移動があったということです。

なぜならば水田稲作などの新しい技術や文化は人間を仲介せずに伝えることはできないからです。

水田稲作の場合は、いまから2800〜2700年前に大陸、とくに朝鮮半島から九州北部に伝わりました。

つまり朝鮮半島から九州北部に、朝鮮半島に住む人間が移動したということです。

朝鮮半島の人々は、水田稲作だけでなく金属器、土器などの大陸の技術や文化を伝えました。

ではなぜ朝鮮半島の人々は、日本、つまり九州北部へと移動する必要があったのでしょうか?

それはこの時期に気候が変動したからです。

つまりはこの時期あたりから、地球全体が寒くなってきたからです。

寒くなってくると朝鮮半島では南国の植物である稲が思うように収穫できなくなってきたのです。

では稲を収穫できるようにするにはどうしたらよいでしょうか?

学ぶ一般人
学ぶ一般人

暖かい南側に移動したらいいじゃん。暖かいと稲が収穫できるんだからさ。

だるま先生
だるま先生

その通り!南に移動すればいいんです。では朝鮮半島の南端まで寒くなったらどうしますか?

学ぶ一般人
学ぶ一般人

それは…より南側といったら日本の九州ってことになるよね。

だるま先生
だるま先生

そうなりますよね。

だから、朝鮮半島の人々は、より暖かくて、より多くの稲が収穫できそうな日本の九州北部へと移住してきたわけです。

だから九州北部である福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)や、佐賀県の菜畑遺跡(なばたけいせき)が日本最古の水田遺跡となるわけです。

水田稲作の発生は長江流域

ではなぜ朝鮮半島から水田稲作の技術が伝わったことがわかっているのでしょうか?

まず水田稲作の起源は中国南部の長江(ちょうこう)の中下流域だといわれています。

中国には黄河(こうが)と長江(ちょうこう)という2つの大きな川がありますが、長江は南側です。

では長江の中下流域から日本までの伝来ルートですが、

  • 中国東北部→朝鮮半島を経て伝来。
  • 山東半島→朝鮮半島を経て伝来。
  • 長江から直接日本に伝来。
  • 台湾→南洋諸島をへて伝来。

など多くの説があります。

このうち現在の研究おいて最も有力な説は、「山東半島→朝鮮半島を経て伝来」という説が有力です。

この理由として水田稲作とともに、黄河流域の小麦などの雑穀(ざっこく)文化や、雑穀をえさとする家畜の飼育技術も日本に入ってきたことが理由です。

さらに日本に伝わった農具も、朝鮮半島で使われた農具ととても似ていることから朝鮮半島を経由したことがわかります。

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日本人が水田稲作を受け入れたのも寒冷化が原因

ではなぜ日本人は大陸から伝わってきた水田稲作という文化を受け入れたのでしょうか?

だってこれまでのように、自然に生えている食材を採集するだけのほうが簡単なはずです。

なぜかわかりますか?

学ぶ一般人
学ぶ一般人

朝鮮半島の人々が日本にやってきたのって地球が寒いからだよね。だった日本も寒くなったから自然食材が不足したんじゃないかな。

だるま先生
だるま先生

その通り!大正解です。

そうです。地球が寒冷化したということは、日本も寒冷化したということです。

いまから4500年くらい前の縄文時代後期になると、日本は寒冷化して自然食材が満足に獲得できなくなります。

そこで日本の人々は、大陸の水田稲作によって食材を生産することで、不足した食材を獲得しようとしたわけです。

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まとめ

  • 以前の弥生時代の始まりは弥生土器の出現からとされていたが、現在では日本に水田稲作が普及した年代からとされている。
  • 朝鮮半島から水田稲作の技術が伝わり日本に普及したのは、確定はしていないが、いまから2500年から2800年前ころではないかといわれている。
  • ただし水田稲作が伝わったのは本州・九州・四国のみであり、北海道南西諸島では縄文時代の採集生活を続けた。
  • 日本で水田稲作が普及したのは、地球の寒冷化により自然食材の量が減ったためである。

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