はじめに
あなたは白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)を知っていますか?
663年に朝鮮半島で起こった唐・新羅VS日本(倭)による戦いのことです。
この戦いで日本(倭)は大敗北することになるのですが、なぜ日本(倭)は強大な中国の唐と戦争することを決意したのでしょうか?
この白村江の戦いが起こった理由について説明していきます。
白村江の戦いまでの東アジア
でははじめに白村江の戦いが起きるまでの東アジア情勢について説明します。
唐が強大化し、孤立する新羅は唐と結びつく
まず618年に建国された唐(とう)は国内の統一に成功すると、北の突厥(とっけつ)や西の吐蕃(とばん)を服属させます。
そのあと、640年代から朝鮮半島の高句麗(こうくり)を攻撃します。
この影響は、朝鮮半島の国々の集権化を促して、日本(倭)でも集権化の動きが起き、645年の乙巳の変(いっしのへん)、そして大化の改新(たいかのかいしん)につながっていきます。
(乙巳の変についてはこちら、大化の改新についてはこちらの記事をご覧ください)
唐は兵力を集中させて百済を滅亡させる
つぎに朝鮮半島における対立構図はどうなっているかというと、「高句麗・百済VS新羅」となります。
高句麗と百済(くだら)の攻撃を受けている新羅(しらぎ)は、唐と同盟関係を結びます。
ではここから時間軸を進めて東アジアの変化をみていきます。
まず最初は、唐は高句麗に攻撃をするのですが、うまく進めることができません。
そこで唐は、西側の吐蕃に駐留していた部隊を東側に向け、海を渡って660年に百済を滅ぼします。
そして唐はそのまま北上して、新羅とともに高句麗攻撃をおこないます。
百済の旧臣たちは、日本(倭)に軍隊を派遣するように求める
唐が百済を滅亡させると、国王の義慈王(ぎじおう)をはじめ都にいた皇族や貴族を唐の都である長安へ連れ去ります。
しかし唐と新羅の軍隊はそのまま高句麗攻撃に向かったため、旧百済が一時的に空白状態となります。
そのチャンスをねらって、百済を復興させようと旧臣たちが動き始めます。
そのリーダーとなったのが鬼室福信(きしつふくしん)という百済の将軍です。
そして鬼室福信ら百済の旧臣たちは、日本(倭)に軍隊を派遣してもらうように求めます。
救援に応じた理由と白村江の戦いの大敗について
では日本(倭)は百済の旧臣の援軍要請にどのように対応したか見ていきます。
白村江の戦いにおける日本(倭)のトップについて
まず百済旧臣の援軍要請からの流れですが、日本(倭)は援軍要請に応じて、朝鮮半島に出兵した結果、663年の白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で唐・新羅に大敗しました。
でもなんで日本(倭)は百済の援軍要請に応じたの?日本と唐の格差がわかっていたら、大敗するのわかっていたじゃん!
ではその理由について説明していきます。
しかしその前に、その時の日本(倭)の状況を見ていきます。
まず、この時の日本(倭)のトップは、斉明天皇(さいめいてんのう)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。
斉明天皇とは、前の皇極天皇(こうぎょくてんのう)と同じ人物です。
皇極天皇は乙巳の変のあと、弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に大王の位を譲るのですが、654年に孝徳天皇が亡くなると、再び大王の位を継いで斉明天皇となったのです。
このように同じ人物が再び天皇の位を継ぐことを重祚(ちょうそ)といいます。
そして皇太子である中大兄皇子が斉明朝の幹部として活躍しました。
そしてふたりは援軍要請を承諾して出兵するのですが、661年に斉明天皇は途中で病没します。
よって663年の白村江の戦いでは、大王は存在しません。
よって中大兄皇子が中心となって唐・新羅とたたかうことになります。
あれ、中大兄皇子が大王に即位して指揮したんじゃないの?
緊急時なので中大兄皇子は大王に即位する暇がなかったと思われます。中大兄皇子が大王の代わりとして戦争を指揮しました。
このように天皇に即位しないままで、天皇の役割をおこなうことを称制(しょうせい)といいます。
これからの記事でも重祚や称制がでてくるので、違いをおぼえておきましょう。
斉明天皇らが援軍要請を受け入れた理由
あの…そろそろ、なぜ日本(倭)が、強大な唐と戦うことを決意したのか教えて欲しいんだけど…
そうでした。では教えます。
斉明天皇と中大兄皇子が百済遺臣による援軍要求を受け入れた理由は、
- 旧縁があった百済を見捨てられなかった。
- 孝徳朝の大化の改新の成功により、日本(倭)の中央集権体制が進んでいたから。
というふたつの理由があります。
よく研究者がいうのは、前者の理由です。
そして後者ですが、孝徳天皇による大化の改新の成功により、大王家への中央集権が進んでいました。
(詳しくはこちらをご覧ください)
実際に孝徳天皇死後の斉明朝では、豪族を動員して新しい宮である飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)周辺を整備する余裕を見せています。
さらには東北地方北部の蝦夷(えみし)や北海道の粛慎(みしはせ)という異民族の討伐をおこなったりもしています。
つまり斉明天皇や中大兄皇子への中央集権がうまくいっており、日本(倭)は大兵力を集められる状態であったのです。
そこで中大兄皇子としては、「これだけの大兵力があったら、もしかしたら大国である唐にも勝てるかも」と過信したわけです。
その結果が、663年の白村江の戦いにおける日本(倭)の大敗北であり、中大兄皇子らは逃げ帰ることになります。
一方で日本(倭)を撃破した唐・新羅軍はそのまま北上して高句麗を攻撃し、668年に高句麗は滅亡してしまいます。
そして残る敵対国は、日本(倭)のみというヤバイ状態になります。
そこで中大兄皇子、のちの天智天皇(てんじてんのう)は、唐や新羅の攻撃に備えて水城(みずき)とか山城を作るといった防衛策をおこなっていくことになります。
結局は、唐と新羅が戦争したために日本に攻めてこなかった
こうして百済も高句麗も滅亡し、唐と新羅に敵対する国は日本(倭)だけとなりました。
あれ、でも教科書には唐と新羅が日本に攻めてきたって書かれていないよね。なんで?
たしかにそうだよね。実際に唐と新羅が日本に攻めてくることはなかったんだ。
唐と新羅が戦争を始めた理由
なぜ攻めてこないかというと、高句麗が滅亡すると、旧百済領・旧高句麗領をめぐって、唐と新羅が戦争を始めてしまったからです。
唐としては自分が多くの兵をだしたのだから、旧百済領・旧高句麗領は自分のものと認識していました。
さらに冊封体制(さくほうたいせい)をとる唐としては、新羅とは平等な同盟関係ではなく従属させたい考えでした。
その一方で、新羅は旧百済領・旧高句麗領は朝鮮半島にあるのだから、朝鮮半島にある自国が支配すべきと考えていました。
さらに新羅としては、唐とはこれまで通り平等な同盟関係を継続したいと考えていました。
この両国の対立により、670〜676年にかけて唐・新羅戦争(とう・しらぎせんそう)が始まったわけです。
つまり唐と新羅同士が戦争を始めたために、日本(倭)へ攻める余裕がなくなったわけです。
唐・新羅戦争の結果
では唐・新羅戦争の結果どうなったかというと、唐が敗北して新羅が勝利しました。
ただし誤解してほしくないのは、唐が敗北したといっても唐が滅亡したのではありません。
あくまで唐は、朝鮮半島から撤退しただけです。
あれ、唐って新羅と比べると圧倒的に巨大な国だよね。唐に勝つって新羅って強すぎない?
唐としては急いで朝鮮半島から撤退しなくてはいけない理由があったんだ。
この理由としては、この記事の最初にあった吐蕃に駐留していた軍隊を東にむけて百済攻撃に向けたことです。
つまり、吐蕃としては唐の兵士がいなくなったことで、再び唐から独立して、逆に唐に攻撃するようになったのです。
その結果、唐は新羅と吐蕃という、東と西からのハサミ打ちという大変不利な状況になりました。
そこで唐は西の吐蕃攻撃を優先するために、あえて朝鮮半島から撤退したのです。
まとめ
- 唐は西の吐蕃に駐留していた軍隊を百済にむけることで百済を滅亡された。
- 唐と新羅が高句麗攻撃に専念している間、百済遺臣により独立運動が起き日本(倭)に援軍要請した。
- 日本(倭)が援軍要請に応じたのは、百済との長年の友好関係に加えて、中央集権が進んだことによる過信にあった。
- 白村江の戦いで勝利した唐と新羅が日本(倭)に攻めてこなかったのは、唐と新羅が戦争を起こした(唐・新羅戦争)ためである。
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