はじめに
あなたは律令国家(りつりょうこっか)を知っていますか?
律令とは刑罰法と行政法からなる法典のことで、簡単に言えば法治国家ということです。
しかし律令制には、現代と違うさまざまな特殊な面も存在します。
律令制はこのあとの奈良時代や平安時代においてとても重要なので、このあと数回にわたって律令制に関する記事を作りたいと思います。
面倒くさいかもしれませんが、お付き合いお願いします。
ここでは律令制の成り立ちの記事で、律令制の基礎の基礎です。
律令国家について
律令制(りつりょうせい)は、あなたがこれからの奈良時代・平安時代を勉強していく中で、とても重要な制度となります。
この律令制がわかっていないと、古代の政治がよく理解できないことになるのです。
よって、がんばって自分も説明しますので、あなたも理解していってください。
律令国家のポイント
まず律令制(りつりょうせい)とは中国の法律によって天皇が国家を統治する制度のことです。
さらに律令制を取り入れた日本のことを、律令国家(りつりょうこっか)と表現されることもあります。
律令国家のポイントですが、律令国家とは、
- 中央集権国家(ちゅうおうしゅうけんこっか)
- 軍事国家(ぐんじこっか)
という2つの側面があることです。
これらを意識すると律令制が理解しやすくなります。
律令国家が重税となるのは軍事国家だからである
奈良時代の万葉集(まんようしゅう)という歌集のなかに、山上憶良(やまのうえのおくら)の貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)があります。
そのなかで一般庶民の貧しさや、役人による苛酷(かこく)な徴税が書かれています。
つまり、律令国家は税負担がとても重いのです。
ではなぜ税負担が重いかというと、律令国家は軍事国家の要素を持つからです。
兵隊や軍事施設の維持・管理をおこなうには多くの費用がかかるからです。
なぜ日本が軍事国家となっていったかというと、最初の要因は663年の白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)にあります。
つまり天智天皇(てんじてんのう)は、唐や新羅といった外敵が攻めてくるかもしれない状況で、軍事力を整備する必要が発生したのです。
(白村江の戦いのあとの政治についてはこちらの記事をご覧ください)
この理由で天智天皇は軍事力を重視するようになります。
そして次の要因は672年の壬申の乱(じんしんのらん)にあります。
(壬申の乱についてはこちらの記事をご覧ください)
律令国家の建設を本格的に進めていった人物として天武天皇(てんむてんのう)があげられます。
では天武天皇がどのようにして政権のトップに立ったかというと、壬申の乱という軍事クーデター、つまり軍事力で政権のトップに立ったのです。
つまり天武天皇も軍事力を重視することになるわけです。
天智天皇や天武天皇が軍事力を重視したことで、律令国家は軍事国家の要素も持つようになるわけです。
税が中央に集まるから中央集権国家である
ではつぎに一般庶民が支払う重税を中央集権国家という視点で見ていきます。
あなたは律令国家の税というと、租庸調(そようちょう)を想像するのではないでしょうか?
ちなみにそれぞれをおおまかに説明すると、
- 租(そ)→口分田から収穫した米の一定の割合を地方に納める。
- 庸(よう)→都での労役、もしくは代納物である布を中央に納める。
- 調(ちょう)→各国の決まった物を中央に納める。
となります。
ではここで質問です。
この租庸調の中で、一番重要な税はどれでしょうか?
うーん…租かな。
江戸時代も米で税を納めているし、重要そうだよね。
なるほど。江戸時代の感覚だとそうかもしれないけど違います。
注目するところは税の内容ではなくて、税の納入先です。
律令国家は中央集権国家なわけですから、中央に納める税が重要となります。
こうしてみると、租は地方ですが、庸と調は中央に税を納入するので、庸と調が重要なわけです。
さらに庸と調を中央に運搬する運脚(うんきゃく)も重要といえます。
つまり律令国家は、軍事国家であり、中央集権国家であると視点で見ることが大事なのです。
日本の律令制について
このことをふまえたうえで、律令制についてみていきましょう。
律令は法律で、天皇に関する規定がない
では律令とは何かというと、律(りつ)と令(りょう)のふたつに分かれます。
つまり律令とは、
- 律(りつ)→刑罰法の法典(ほうてん)。
- 令(りょう)→行政法などの法典。
という2種類の法律のことです。
そして律令の特徴で重要なのは、天皇に関する規定が存在しないということです。
律令には、官人の官位・役職についての規定や、一般庶民の支配体制についてはいろいろ書かれているのですが、天皇に関する規定については書かれていません。
つまり律令においては、天皇は律令を超越する存在であることを表します。
なぜならば律令とは、天皇が人民を支配するための法典であるからです。
たとえば明治時代に制定された大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)、つまり明治憲法と比較しましょう。
明治憲法には、天皇に関する規定も書かれています。
つまり明治憲法には、人民支配と同時に、支配者の暴走を防ぐためのものである性格があります。
一方で日本の律令では天皇に関する規定がないので、天皇はどんなことをやっても、決して罰せられないことを意味しています。
この理由として、明治憲法がヨーロッパの憲法を模倣したものに対して、日本の律令は中国の唐(とう)の律令を模倣しているという、参考にしている国に違いがあるからです。
このように日本の律令には、天皇に関する規定がないのが最大の特徴といえます。
言い換えると、律令とは権力者(天皇)が人民を統治するための法律であるから、権力者についての規定がないといえます。
日本では行政法である「令」の制定を優先した
では次に日本における律令制の整備の経過について見ていきます。
日本の律令制は、近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)、大宝律令(たいほうりつりょう)という順で作られています。
近江令は天智天皇(てんじてんのう)に作られました。
近江令については、一部は実在を疑問視する研究者もいますが、最近の研究では何らかの法典があったという考えが多数派となっています。
飛鳥浄御原令ですが、天武天皇(てんむてんのう)によって作成が始まり、完成したのは689年の持統天皇(じとうてんのう)の時代です。
これら近江令と飛鳥浄御原令と見てわかるように、日本においては「令」の制定が優先されました。
そして701年の文武天皇(もんむてんのう)の時代に、大宝律令(たいほうりつりょう)の制定によって、ようやく「律」と「令」が両方ともそろいました。
なぜ日本において「令」が優先されたかというと、日本ではいち早く中央集権国家にしたいと考えており、行政法である「令」の制定がより効果的であったからです。
ちなみに大宝律令制定のころ、日本では天皇が統治する政治機関のことを、政務や儀式をおこなう場所から朝庭(ちょうてい)、のちに朝廷と呼ぶようになります。
官人に儒教の知識が必須だった理由
その一方で律令制度を創始した中国の唐では、日本とは逆で、刑罰法である「律」の制定の方を優先しました。
なぜならば刑罰法である「律」とは、儒教道徳(じゅきょうどうとく)を守らない人を処罰のために作られた法典であるからです。
ちなみに儒教とは、中国から昔からある生活規範のことです。
なぜ中国の儒教道徳の話をしたかというと、律令国家で働く官人たちには、漢文の知識と、儒教の知識が必須でした。
漢文については、律令国家は文書(ぶんしょ)で命令を伝えるからです。
しかし儒教の知識も同時に必要なのは、儒教の知識がないと、儒教道徳を守るために作った「律」の意味を理解できないからです。
たとえば、「律」のなかに八虐(はちぎゃく)という刑罰がより重くなる条項があるのですが、そのなかに上司や祖父母に逆らうと重罪になる(不孝・不義)場合がありました。
これは儒教における忠孝(ちゅうこう)の思想がわかっていないと理解できません。
よって官人育成機関である大学寮(だいがくりょう)においても、儒学を学ぶ明経道(みょうぎょうどう)のほかに、深く儒学を知るために中国の歴史を学ぶ紀伝道(きでんどう)も学びました。
紀伝道も必要なのは、深く儒教を学ぶには中国の歴史も頭に入れておく必要があったからです。
このように官人には漢文の知識のほかに、儒教の知識も必須であったわけです。
よってのちの奈良時代・平安時代になると、漢文と儒教の知識を鍛えるために、貴族(高級官人)の間で漢詩文(かんしぶん)を作ることが流行します。
まとめ
- 律令国家には、中央集権国家と軍事国家という側面も同時にもっていた。
- 律令には支配者である天皇の規定はない。
- 日本における律令制では、中央集権国家の建設により効果がある、行政法である「令」の制定を優先した。
- 刑罰法である「律」は中国の儒教道徳の考えから作られたため、官人には漢文のほかに、儒教の知識も必須だった。
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