【磐井の乱】朝鮮半島の新羅と組んでヤマト政権をゆるがした大反乱!

磐井の乱アイキャッチ 日本史

はじめに

この記事では古墳時代後期にあたる6世紀を見ていきます。

ところであなたは磐井の乱(いわいのらん)について知っていますか?

自分が学生のころは、古墳時代に筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)という長ったらしい名前の人物が反乱を起こしたとだけ教えられました。

ただそれだけです。

でも磐井の乱は3年という長期の反乱であり、朝鮮半島への出兵を中止させるほどのものです。

今回は古墳時代後期の朝鮮半島情勢と磐井の乱の関係性について説明します。

随による中国統一と朝鮮半島における新羅の大国化

では古墳時代後期を見ていきます。

ちなみに古墳時代後期とは6世紀にあたります。

中国大陸は随によって統一された

では6世紀における東アジア情勢から説明しますが、まず大きく変化するのが中国大陸です。

6世紀末にあたる589年に、(ずい)によって統一国家が誕生します。

朝鮮半島では新羅が大国化し加那が滅亡した

そして6世紀の朝鮮情勢ですが、おおきな特徴は新羅の大国化加那の滅亡です。

下の図をご覧ください。

4世紀から5世紀にかけての朝鮮半島は、南下する高句麗(こうくり)に対抗するために、百済(くだら)と加那(かや)が戦っており、日本(倭)が百済と加那を助けるという構図でした。

つまり4世紀から5世紀の朝鮮半島は、「高句麗VS日本(倭)・百済・加那」という構図だったわけです。

しかし6世紀になるとこのように変化しました。

どこが変化したかわかりますか?

学ぶ一般人
学ぶ一般人

えっ!えーと、百済の北半分が新羅の領土になっていることと、加那がなくなって新羅の領土になっていることかな。

だるま先生
だるま先生

はい正解です。このことには重要な意味がありました。

なぜ6世紀の朝鮮半島がこのような状況になったかは、重要でないので省略します。

このような状況がそれぞれの国の外交政策にどのような変化をもたらしたかを説明します。

まず高句麗ですがこれまでと変わらず南下政策を続けていますが、攻撃先はすべて新羅(しらぎ)の領地なので新羅とのみ対立することになります。

(つまり高句麗VS新羅

さらに562年に加那は新羅によって攻め滅ぼされましたが、日本(倭)にとって大きな出来事でした。

日本(倭)にとって加那は、貴重な鉄資源の供給をおこなう友好国であり、友好国である加那を新羅に奪われたことで、日本(倭)の敵は新羅ということになります。

(つまり日本VS新羅

ここに元々は百済の領土であった旧百済領北部を新羅に奪われたことにより、百済と新羅は対立関係となります。

(つまり百済VS新羅

つまり6世紀の朝鮮半島になると、「新羅VS日本(倭)・高句麗・百済」という構図に変化するわけです。

そして日本(倭)、高句麗、百済は緩やかな友好関係を結ぶようになり、この関係は7世紀の飛鳥時代(あすかじだい)でも継続することになります。

7世紀の飛鳥文化は友好国である高句麗や百済を経由して伝わった

7世紀にはじまる飛鳥文化(あすかぶんか)は中国文化が朝鮮半島を経由して日本へとはいってくるのですが、経由する朝鮮半島とは高句麗や百済ということになります。

たとえば飛鳥文化で、日本に暦(こよみ)が伝わりますが、伝えたのは百済の僧(そう)である観勒(かんろく)です。

さらに日本に墨、紙、絵の具を作る技術を伝えたのは、高句麗の僧である曇徴(どんちょう)です。

新羅は中国大陸の王朝と友好関係をもって対抗する

新羅からすると高句麗や百済からはさまれて朝鮮半島で孤立化することは不利になります。

そこで新羅は新たな友好国を探すことになるのですが、目をつけたのが新羅の新たな領土となった旧百済北半分です。

新羅は旧百済北半分の沿岸から西に船を送って中国大陸の王朝と接触していくことになります。

7世紀の中国大陸の王朝でいえば、(とう)があてはまります。

つまり「新羅・唐VS日本(倭)・高句麗・百済」という対立構図へと発展します。

これによって何が言いたいかというと、この対立構図は663年に起こった白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)へそのままつながっていくということです。

7世紀におきた白村江の戦いは古代の日本において大きな影響を与えた戦いですが、その対立関係は6世紀からすでにあったということです。

日本に百済から仏教が伝来した意味

6世紀になっても日本(倭)としては百済や加那を助けるために朝鮮の出兵を続けました。

ただし日本(倭)・百済・加那の戦争をおこなう相手が高句麗から新羅へと変わっただけです。

百済や加那には、日本(倭)が救援してくれる見返り、つまりお礼がありました。

加那からはもちろん鉄資源を見返りとして供給されました。

そして百済からは、6世紀に儒教(じゅきょう)や仏教(ぶっきょう)が救援してくれる見返りとして伝えられました。

つまり538年もしくは552年にあった仏教公伝(ぶっきょうこうでん)ですが、ただ自然に百済から仏教が伝わったのではありません。

あくまで百済を救援してくれる見返りの意味として、日本に仏教が伝わったと理解することが重要です。

磐井の乱により朝鮮出兵を断念する

このように日本(倭)は百済や加那の救援をつづけたわけですが、加那の救援は失敗して662年に新羅から滅ぼされてしまいます。

では加那の救援が失敗した理由は何なのでしょうか?

この大きな原因とされるのが6世紀前半に起きた磐井の乱(いわいのらん)という地方で起きた大反乱です。

磐井の乱を起こした磐井とはどのような人物か

磐井の乱とは、磐井(いわい)という人物が起こした大反乱です。

磐井とは九州北部を支配する有力豪族です。

福岡県の八女市に、岩戸山古墳(いわとやまこふん)という全長100m前方後円墳がありますが、これが磐井の墓と推定されています。

この磐井ですが九州北部の有力豪族であるため、位置的にヤマト政権の朝鮮出兵の時には多くの兵隊・船・食料を提供していました。

なぜ磐井は反乱を起こしたのか

磐井にとって長年続く朝鮮出兵によって、くりかえし兵隊・船・食料を供給することに対して不満を持った。

そのことがヤマト政権に反乱を起こしたことが理由のひとつと考えられます。

さらに岩戸山古墳に磐井が埋葬されていると仮定した場合、もう一つの理由があります。

岩戸山古墳の周辺から石で作った人や馬、つまり石人・石馬(せきじん・せきば)が多く発見されています。

画像はwikipediaを引用

ではこの石人・石馬とは朝鮮半島、より詳しく言うと朝鮮半島南東部、つまり新羅が存在した地域でよく見られるものです。

つまりは岩戸山古墳周辺の石人・石馬とは新羅の影響を受けたものであるということです。

このことから考えられることは、磐井は朝鮮半島の新羅と交流があったということです。

これに対して6世紀のヤマト政権は友好国である加那に進出していったこともあって新羅を敵視していました。

しかし磐井にとって新羅とは交流がある友好国であり、磐井としてはヤマト政権の外交方針に対して不満を持っていた考えられます。

たしかに5世紀の古墳時代中期ころからしだいに大王(おおきみ)の権力が強くなっていきました。

(大王の権力強化についてはこちらの記事をご覧ください)

しかし磐井のように、大王に対して不満を持つ豪族も多く残っており、大王の権力は絶対的なものとはいえませんでした。

この磐井の乱は磐井が新羅と手を組んで、527年から529年まで3年間の長期間にわたり続きました。

しかし最終的には、ヤマト政権の幹部である物部氏(もののべし)によって磐井の乱は鎮圧されました。

磐井の乱のあと大王の権力がさらに拡大する

ではここでは磐井の乱によるヤマト政権の影響について見ていきます。

加耶を失っても比較的ダメージは少なかった

ヤマト政権は磐井の乱によって加那を救援することをあきらめ、562年に加那は新羅の侵攻をうけて滅亡します。

加那の滅亡により、ヤマト政権の朝鮮半島に置ける影響力は後退することになります。

しかしあなたは、「朝鮮半島における影響力が落ちたから大王の権力も弱まったんだ」と理解していませんか?

学ぶ一般人
学ぶ一般人

えっ!違うの?だから蘇我氏(そがし)、たとえば蘇我馬子とか蘇我入鹿が台頭して、大王に代わって独裁政治をおこなったんじゃないの?

だるま先生
だるま先生

なるほど。他の人もイメージも同じかな?でもそれは間違いです。大王のダメージはほとんどありません。

その理由としてひとつには、ヤマト政権はこのような反乱が再び起こらないように対策をおこなっています。

たとえば国造制(くにのみやつこせい)があります。

つまり地方の重要箇所に屯倉(みやけ)という機関を設置して地方豪族を管理しました。

ふたつめですが、確かにヤマト政権の朝鮮半島への影響力は失いましたが、加那が滅亡したことによる影響はほぼありませんでした。

もともとヤマト政権が朝鮮半島に進出したの日本で鉄が生産できなかったからです。

(詳しくはこちらの記事をご覧ください)

しかし6世紀には、日本で鉄の国産化が行われており、朝鮮半島の鉄資源をわざわざ求める必要はなくなっていたのです。

大王が特定の血筋で世襲されるようになった

磐井の乱のあと大王の権力は変わらないどころか強くなったと思われます。

なぜならば大王の地位が特定の血筋で世襲(せしゅう)されるようになったからです。

つまり6世紀初頭に継体天皇(けいたいてんのう)という謎が多い大王が即位するのですが、ここから大王の地位は世襲となります。

このあと安閑(あんかん)、宣化(せんか)、欽明(きんめい)、敏達(びだつ)と大王になりますが、継体天皇と血がつながっています。

このことが何を示すかというと、大王を世襲することに不満を表す人がいないということです。

つまりすべてのひとが大王の世襲を認めている地点で、大王の権力が強くなったということです。

ちなみに継体天皇の血筋(大王家、のちの天皇家)は、現在の126代の今上天皇・徳仁(なるひと)まで続いています。

さらに上の系図に関連すると、蘇我氏は大王の権力が下がったから台頭したのではありません。

蘇我氏は、権力が上がった大王と自分の娘を結婚させて、大王家の外戚関係となることで権力を拡大していったのです。

政治制度の整備

さらに6世紀になると、ヤマト政権は政治制度を整備することで大王の権力を強化しました。

ヤマト政権が整備した政治制度として、氏姓制度(しせいせいど)・国造制(くにのみやつこせい)・部民制(べのたみせい)があります。

まとめ

  • 5世紀では日本(倭)・百済・加那VS高句麗という対立だったが、6世紀になると新羅が加那を滅ぼしたため、日本(倭)・百済・高句麗VS新羅と変化した。
  • 新羅と交流があった磐井が反乱を起こしたことで、ヤマト政権は加那を救えず、日本(倭)の朝鮮半島における影響力は後退した。
  • 6世紀に、大王の位が特定の血筋(大王家、のちの天皇家)によって世襲されるようになったことや、政治制度が整備されたことで大王の権力は強くなった。

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