はじめに
あなたは持統天皇(じとうてんのう)がなぜ天武天皇(てんむてんのう)の次に即位したか知っていますか?
じつは自分の愛する息子である草壁皇子(くさかべのおうじ)を即位させたかったのです。
しかし早くになくなったために孫の文武天皇のつなぎとして即位したのです。
このため、奈良時代の皇位継承は草壁皇子の子孫、つまり草壁直系(くさかべちょっけい)で即位することになりました。
今回は奈良時代の皇位継承を形作った持統天皇と草壁直系の関係について見ていきます。
奈良時代の政治史のポイント
奈良時代の政治史のポイントについて説明します。
日本史の授業において太政官の中心人物の変化について学習しませんでしたか?
たとえば「藤原不比等(藤原氏)→長屋王(反藤原氏)→藤原四子(藤原氏)→橘諸兄(半藤原氏)→藤原仲麻呂(藤原氏)→道鏡(反藤原氏)」といった具合です。
しかし律令国家における最高権力者は天皇であるので、天皇を無視して授業をおこなうのは個人的に問題があると思います。
そのために最高権力者である天皇をつなぐ順番、つまり皇位継承(こういけいしょう)においてさまざまな事件が起こっていることに注目すべきです。
そのためには天皇家の系図から、天皇と太政官の中心人物との関係性を見ることが大事になります。
持統天皇の即位
では奈良時代の政治史を説明しますが、そのはじまりは7世紀末の持統天皇(じとうてんのう)の即位までさかのぼります。
持統天皇即位の経緯
まず持統天皇即位の経緯ですが、686年に天武天皇(てんむてんのう)が死去したことから始まります。
この天武天皇の跡を継ぐのは、天武天皇と皇后・持統天皇こと鵜野皇女(うののひめみこ)との間の皇子である草壁皇子(くさかべのみこ)と考えていました。
しかし当時、草壁皇子は30歳を超えていない上に大変病弱だったので、天皇即位を延期して様子をみることに決定されます。
さらに別の天皇後継者の動きが現れました。
天武天皇は鵜野皇女以外にもさまざまな女性との間にたくさんの皇子がいます。
そのひとりとして、長男の高市皇子(たけちのみこ)がいます。
高市皇子は672年の壬申の乱(じんしんのらん)で、自分で剣をもって戦った人物として知られていました。
ただし彼の母親が九州の豪族の娘であり、血統としてはよくありませんでした。
そしてもうひとりは、大津皇子(おおつのみこ)です。
彼の母親である大田皇女(おおたのひめみこ)は鵜野皇女の実の姉であるため、父親は天智天皇(てんじてんのう)と、血統としては申し分ありません。
さらに有能な人物であるため、草壁皇子の最大のライバルといえます。
つまり天武天皇の後、草壁皇子が絶対に天皇後継者になるかわからないという状況であったわけです。
そのため686年に天武天皇が亡くなったすぐ後に、鵜野皇女が大津皇子を謀反(むほん)の罪により殺害する事件も起きています。
つまり鵜野皇女としては、自分の息子である草壁皇子を天皇にしたかったわけです。
しかし3年後の689年に、草壁皇子は28歳という若さで病死してしまいます。
すると鵜野皇女としては、草壁皇子の息子、つまり自分の孫である軽皇子(かるのおうじ)を天皇として即位させたいと考えるようになります。
しかし軽皇子はまだ7歳でしかありません。
そのため690年、軽皇子が天皇に即位するまでの中継ぎの天皇として、鵜野皇女が持統天皇(じとうてんのう)として即位したのです。
これが持統天皇即位の経緯です。
草壁直系の天皇の発生
こうして草壁皇子の子孫、つまり草壁直系(くさかべちょっけい)による皇位継承が、奈良時代の政治史の特徴となっていきます。
教科書で「奈良時代は天武系」といわれていますが、厳密に言えば草壁直系であり、その慣例を作ったのが持統天皇であるわけです。
じっさいに持統天皇は、697年、草壁皇子の子供にあたる軽皇子を、若干15歳で文武天皇(もんむてんのう)として強引に即位させます。
まさに持統天皇の執念といえます。
持統が太政天皇として政治を代行する
しかし文武天皇は15歳の未成年であるため、天皇を辞めた持統が太政天皇(だいじょうてんのう)として補佐というか代行して政治をおこないます。
つまり持統太政天皇が文武天皇を代行したわけです。
ちなみにここで「上皇(じょうこう)」という用語は使わないでください。
上皇は1186年の白河上皇の院政期から使われる用語であり、それ以前は太政天皇が使われるのが通例になっています。
ここで問題となるのが天皇と太政天皇との関係ですが、697年は大宝律令の制定前となります。
そこで持統太上天皇は、律令に「天皇と太政天皇は対等な関係である」と入れさせます。
となると、律令国家の最高権力者が2人いるってなるじゃん。大丈夫なの?
律令の規定がそうなったんだから仕方ありません。
このため奈良時代では、天皇のほかに政治経験が多い太上天皇も存在感を示していることが特徴です。
持統太上天皇と文武天皇は祖母と孫であるので、圧倒的に持統太上天皇が上です。
しかし直系でない人が太上天皇と天皇である場合、権力争いが起こる場面がありました。
文武天皇を補佐した人たち
ここでは文武天皇を補佐した人物を説明します。
貴族代表として藤原不比等を優遇する
さらに持統太上天皇は自分が亡くなった後に文武天皇を補佐する人物についても考えていました。
そこで文武天皇の妻としてある有力貴族の娘を迎えます。
その人物が藤原宮子(ふじわらのみやこ)で藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘にあたります。
藤原不比等は大化の改新で活躍した中臣鎌足(なかとみのかまたり)の息子です。
ではなぜ藤原不比等なのかというと、「不比等」の名前があるように、とても優秀な人物であるからです。
たとえば大宝律令を作ったのは藤原不比等であり、持統太上天皇の依頼で律令に太上天皇の規定を書き加えたのも彼です。
さらに藤原不比等は、大宝律令を改正した養老律令(ようろうりつりょう)も作ることになります。
(ただし施行されたのは、藤原仲麻呂の代です)
つまり藤原不比等はとても優秀で、持統太上天皇の信用が厚い人物であったわけです。
よく藤原氏は他氏排斥(たしはいせき)のみで、のしあがってきたと誤解されますが、一方で天皇家側からも藤原氏を厚遇する理由があったということです。
持統天皇と県犬養三千代の関係
さらに藤原不比等が厚遇される要因があります。
それは県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)と持統太上天皇との関係です。
県犬養三千代(のちに橘三千代)は藤原不比等の後妻(ごさい)に当たる人物ですが、持統天皇の女官のトップである尚侍(ないしのかみ)を務めていました。
(尚侍についてはこちらの記事をご覧ください)
つまり持統天皇と県犬養三千代は茶飲み友達ともいえる親しい関係であったわけです。
よって妻の県犬養三千代が持統天皇が親しいからこそ、その夫である藤原不比等が厚遇されたということです。
これらの理由から持統太上天皇は、自分が亡くなった後の貴族の代表として藤原不比等を置くことになります。
皇族代表として長屋王を優遇する
さらに持統太上天皇は皇族代表として長屋王(ながやおう)を置きます。
長屋王は天武天皇の長男である高市皇子の息子です。
高市皇子は持統天皇との関係性は良好でした。
高市皇子は持統天皇を自分の母として慕っており、持統天皇も高市皇子を太政大臣(たじょうだいじん)に任命し、補佐役として重用していました。
よってその息子である長屋王も引き続き重用して厚遇することになります。
その証拠に、持統太上天皇は長屋王の妻として文武天皇の妹、つまり自分の孫である吉備内親王(きびのないしんのう)を嫁がせます。
ちなみに持統太上天皇は、藤原不比等の娘を長屋王に嫁がせて親戚関係にすることで、両者同士の友好関係を作らせました。
ここでいちばん最初に戻りますが、「長屋王(反藤原)」となっているのは間違いだとわかります。
なぜなら藤原不比等と長屋王は親戚関係であり、長屋王は反藤原ではないからです。
このように持統太上天皇は自分が亡くなった後も、貴族代表・藤原不比等、皇族代表・長屋王に補佐させることで、安定した政治を目指したわけです。
つまり持統太上天皇の執念によって、奈良時代の皇位継承をはじめとした政治体制を形作ったといえるのです。
まとめ
- 奈良時代の政治史は権力者の変化よりも天皇の皇位継承が重要。
- 持統天皇は、草壁皇子の息子の文武天皇が即位するまでのつなぎとして即位した。
- このため皇位継承は草壁皇子の子孫、つまり草壁直系でおこなわれた。
- 持統天皇は697年に引退し太上天皇となったが引き続き政務を代行した。
- 持統太上天皇は自分が亡くなったあとの天皇の補佐として貴族代表・藤原不比等、皇族代表・長屋王を配した。
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