はじめに
あなたは729年の長屋王の変(ながやおうのへん)を知っていますか?
これは当時の太政官の中心人物である長屋王(ながやおう)が、藤原不比等(ふじわらのふひと)の息子たちである藤原四子(ふじわらよんし)の陰謀で排除された事件です。
この背景には聖武天皇の後継者問題、つまり聖武天皇と藤原光明子との間に女の子しかいないという問題がありました。
では今回は聖武天皇の後継者問題と長屋王の変との関わりについて説明します。
聖武天皇の後継者問題
ここでは聖武天皇(しょうむてんのう)の後継者問題について説明します。
聖武天皇即位までの経緯
持統天皇(じとうてんのう)は息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)とちのつながった人物(草壁直系)によって皇位が継承されるシステムを作りました。
これにより、草壁皇子の息子の文武天皇(もんむてんのう)が即位し、つぎはその息子が聖武天皇(しょうむてんのう)として即位する予定でした。
しかし文武天皇が早くに亡くなってしまい、幼少の聖武天皇が残ってしまいます。
そのため草壁皇子の妻が元明天皇(げんめいてんのう)、娘が元正天皇(げんしょうてんのう)として聖武天皇が成長するまでの中継ぎとなりました。
そして成長した聖武天皇が724年に即位します。
聖武天皇と藤原光明子の間に男の子がいない
しかしここで困ったことが起こります。
聖武天皇と藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)との間には阿倍内親王(あべのないしんのう)という女の子はいたのですが、男の子がいなかったのです。
ちなみに阿倍内親王は、のちの孝謙天皇(こうけんてんのう)となります。
天皇は代々男系で相続するのが普通でしたが、聖武天皇と藤原光明子の間には、後継者となる男の子がいなかったのです。
さらに聖武天皇は病弱であり、亡くなる前に早めに後継者を決めておきたかったこともあります。
この聖武天皇の後継者をめぐり、729年に長屋王の変(ながやおうのへん)という政変が起こることになります。
この長屋王の変が起こることで、太政官の中心が長屋王(ながやおう)から藤原四子(ふじわらよんし)に変わることになります。
安積親王の存在
では聖武天皇の後継者問題を説明します。
ここで問題となるのは、さきほどの聖武天皇と藤原光明子の間に男の子がいないことに加えて、728年に別の女性との間に男の子が産まれたことです。
この男の子を安積親王(あづみしんのう)といいます。
この安積親王は、藤原氏の血が入っていないことに加えて、母親の家柄が低いということが問題でした。
これまでの天皇は、父親の血筋はもちろんですが、母親の血筋も重視されていました。
そのため母親の家柄が低い安積親王が天皇に即位できるかどうかは、周りの政治状況でかわるということです。
つまり聖武天皇と藤原光明子との間には、阿倍内親王という女の子しかいないという状況で、多くの貴族たちが、後継者は安積親王でいいと主張するようになったのです。
藤原四子が安積親王の即位に反対する
では安積親王がそのまま天皇になるかというと、問題はそう単純ではありません。
藤原氏の人たち、つまり藤原不比等の4人の息子である藤原四子(ふじわらよんし)が安積親王の即位に反対したのです。
なぜなら、藤原氏はこれまで文武天皇と聖武天皇の妻を藤原氏の娘とすることで、天皇家の外戚(がいせき)として太政官の中心にいることができたからです。
ちなみに外戚とは、母方の親戚のことです。
しかし母親が藤原氏でない安積親王が即位した場合、藤原氏は天皇家の外戚ではなくなってしまいます。
この理由から藤原四子は、安積親王の即位に反対したのです。
このことが729年に起きる長屋王の変(ながやおうのへん)の背景となります。
藤原四子と他の貴族との対立
このような理由から、太政官で権力を握り続けたい藤原四子は、他の貴族と対立することになります。
そこで藤原四子は次のように主張します。
まずは阿倍内親王を即位させよう。その間に天皇と光明子の間に必ず男の子が産まれるから、その男の子を次の天皇にしましょう。
藤原四子は相当無茶なことを言っています。
つまり藤原四子としては、妹である藤原光明子が天皇の母であることが重要だからこのようなことを言っているのです。
当然のことながら、他の貴族から多くの不満がでます。
そこで他の貴族は、安積親王を後継者とすればいいという意見が出てきます。
しかし安積親王もまだ産まれたばかりであり、もしも草壁直系のような病弱であった場合、いつ亡くなるかわからないとも考えていました。
実際に安積親王は病弱で、744年にわずか17歳で亡くなります。
長屋王の息子たちが新たな皇位継承候補となる
そこで他の貴族から、長屋王(ながやおう)の息子でもいいだろうという意見も出てきます。
ちなみにその息子は3人います。
ただし長屋王と吉備内親王(きびのないしんのう)との間の息子たちだけです。
藤原不比等の娘との間の男の子ではありません。
なぜそう考えたかというと、吉備内親王は草壁皇子の娘であり、草壁直系の人物であるからです。
さらに長屋王自身も、天武天皇(てんむてんのう)の孫であり、皇族という高い家柄です。
しかも彼らは成人しているという利点もありました。
聖武天皇の後継者のまとめ
ここで聖武天皇の後継者候補をまとめておきます。
- 阿倍内親王→父は聖武天皇で、母は名門藤原氏の藤原光明子であり、成人であることが利点。しかし女性で未婚であることが欠点。
- 安積親王→父は聖武天皇だが、母の血筋が低いことや、幼少であることが欠点。
- 長屋王の息子たち→父が長屋王と天皇でなく皇族であることが欠点。しかし母親は草壁皇子の血を引く草壁直系であり、彼らが成人していることが利点。
長屋王の変について
ここでは聖武天皇の後継者問題から長屋王の変に発展した経緯と結果について説明します。
藤原光明子の立后を主張する
ここで藤原四子は、妹である藤原光明子を皇后(こうごう)にしたいと主張します。
ちなみに皇后になることを立后(りつごう)といいます。
なぜ藤原四子が妹の立后を主張したかというと、皇后の子供が優先的に次の天皇となるという暗黙の了解があるからです。
つまり藤原四子としては、①阿倍内親王を即位させるために母親である藤原光明子を皇后としたかったわけです。
しかし藤原光明子の立后に、長屋王が反対します。
その根拠として大宝律令(たいほうりつりょう)の規定で「皇后は皇族でなければならない」と規定されているからです。
つまり皇后とは、天皇の政治を補佐するほどの大きな権力を持っているため、皇族以外の人間が皇后になるべきではないと考えられたからです。
実際、藤原光明子はのちに光明皇后となるわけですが、聖武天皇の政治に多く関与して大きな権力を持つようになります。
しかしこの「皇后は皇族でなくてはならない」という規定を、藤原四子が知らないはずはありません。
なぜなら、大宝律令はかれらの父である藤原不比等(ふじわらのふひと)が作ったものであるからです。
つまり藤原四子はこのことを知っていながら、強引に妹を立后しようとしたわけです。
でも律令の規定で皇族でない人が皇后にはなれないはずです!律令の規定には素直に従うべきです。
律令の規定?そんなの別にいいじゃんか!頼むから妹を皇后にしてくれよ。
だめです。律令には従うべきです。
頭の堅い男だな…(こうなったら強引に排除するしかないな…)
こうして藤原四子と長屋王の争いが起こり、その結果として、729年の長屋王の変において、藤原四子の陰謀により長屋王一家が自害に追い込まれるわけです。
長屋王の変の本当の目的
あなたはこれを見て、長屋王の変における藤原四子の標的は長屋王だけだと思いませんか?
そりゃそうでしょう。長屋王は藤原四子の抵抗勢力だからね。だから「長屋王の変」なんじゃないの?
でも長屋王の変にはもう一つの目的があるんです。
たしかに長屋王の変の原因として、藤原四子と長屋王の対立があることは確かです。
でも藤原四子の本当の標的は、③長屋王の息子たちです。
①阿倍内親王を即位させるためには③長屋王の息子たちが邪魔となります。
そこで③長屋王の息子たちを政治的に排除するために、親である長屋王と吉備内親王もまとめて排除したのです。
その証拠に、長屋王と藤原不比等の娘との間にできた息子たちは排除されずに生き残っています。
つまり長屋王は、③を排除するためにに一緒に滅ぼされただけであるということです。
長屋王の変は聖武天皇も加担した
でも藤原四子の好き勝手に長屋王とかその息子たちを滅ぼして、聖武天皇は何も思わないの?だって天皇は律令国家のトップでしょう?
じつは長屋王の変は、聖武天皇の承諾を得てからおこなっているんです。
ここでポイントとなるのは、聖武天皇は草壁直系の人間であるのはもちろんですが、さらに藤原氏の血も引いた人物でもあるということです。
つまり聖武天皇は藤原四子に配慮したのです。
それどころか聖武天皇は、長屋王とその息子たちの排除にオーケーしているはずです。
そうでなければ、いくら藤原四子の権力が強いからといって、天皇の許可無しで、自分勝手に長屋王たちの排除をおこなうことは絶対に許されません。
このような大事をおこなう際は、律令国家のトップである聖武天皇の許可を得るのは当然のことです。
ではなぜ聖武天皇は長屋王たちの排除を許可したの?
それは自分の子供が天皇に即位して欲しいからです。
聖武天皇としては、直接の血がつながっていない③長屋王の息子たちでなく、自分の子供である①阿倍内親王や②安積親王に天皇を継がせたかったのです。
親として自分の子供に天皇になって欲しいのは当然のことです。
聖武天皇としては、安積親王が成長するまでの間は①阿倍内親王に天皇を中継ぎさせ、成長したら②安積親王に天皇を継がせることを考えていたようです。
まとめ
- 聖武天皇は藤原光明子との間に、阿倍内親王という女の子しかいなかったために、天皇の後継者問題が発生した。
- 聖武天皇は他の女性との間に安積親王という男の子ができるが、母親の家柄が低く幼少のため後継者候補として疑問があった。
- そこで母親が草壁直系である長屋王の息子たちが後継者候補として浮上した。
- 藤原四子は藤原光明子を立后させたかったが、長屋王が反対したために長屋王の変が発生した。
- しかし長屋王の変の本当の目的は、皇位継承で阿倍内親王のライバルとなる長屋王の息子たちを政治的に排除するためである。
- 長屋王の変には聖武天皇も関わっていた。
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