はじめに
今回は、古墳時代中期のヤマト政権の政治、とくに雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)ことワカタケル大王の政治と古墳時代中期の古墳について説明します。
日本は8世紀の奈良時代になると、天皇中心の律令国家が始まるわけですが、そのはじまりが5世紀に活躍したワカタケル大王であるとする説があります。
日本書紀にある雄略天皇、つまりワカタケル大王は、自分に逆らう豪族をつぎつぎに滅ぼした残忍(ざんにん)な人物であると書かれています。
しかしその一方で、逆らう人物を滅ぼしたワカタケル大王によって、ヤマト政権における大王(おおきみ)の権力が飛躍的に高まったともいえます。
今回はヤマト政権における大王の地位を高めたワカタケル大王について説明していきます。
さらに古墳時代中期の古墳についても説明していきます。
ワカタケル大王とは何者なのか
ここでは雄略天皇ことワカタケル大王の人物像と、彼の大王についての考えについて説明します。
ワカタケル大王の実在した証拠
このワカタケル大王が実在した証拠として、埼玉県にある稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土された鉄剣があります。
その鉄剣には「獲加多支鹵」、つまり「ワカタケル」と書かれており、文章からワカタケル大王の存在が確認できたのです。
しかも「辛亥の年」、つまり471年に作られたものであることから、ワカタケル大王が5世紀の古墳時代中期の人物であったことがわかったのです。
ワカタケル大王=倭王武でもある
さらに中国南朝の宋に朝貢の使節を派遣した倭の五王(わのごおう)のひとりである倭王武(わおうぶ)はワカタケル大王と同一人物ではないかといわれています。
ある研究者の説によると、ワカタケル大王の「タケル」の部分を「武」に当てはめて、「倭王武」として朝貢したらしいのです。
朝貢の際に一緒に送った倭王武の上表文(わおうぶのじょうひょうぶん)の文面で478年であると書かれています。
つまりこれも5世紀後半のことです。
つまりワカタケル大王と倭王武は同一人物と考えられるのです。
さらにいうと、ワカタケル大王は日本書紀に書かれている雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)と同一人物ともいわれています。
ワカタケル大王はふたつの称号を使った
ワカタケル大王は、これまでの日本の権力者(首長)とは変わったところがあります。
それはふたつの称号を名乗っているということです。
これまでの卑弥呼などの権力者(首長)は、「親魏倭王(しんぎわおう)」など中国王朝から冊封された称号のみを名乗っていました。
しかしワカタケル大王は違います。
まず中国南朝の宋からは、朝貢の結果として、「安東大将軍倭王(あんとうだいしょうぐんわおう)」という称号を冊封されました。
しかしながら、稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた文章を読んでいくと、ワカタケル大王は、「治天下大王(ちてんかおおきみ)」と独自に名乗っていたのです。
つまりワカタケル大王は、「治天下大王」と「安東大将軍倭王」のふたつの称号を持っているわけです。
では「治天下大王」ですが、「天下(てんか)」とは、自分が支配する領域といった意味と考えられます。
つまり「治天下大王」とは「支配領域を治める大王(おおきみ)」という意味でしょう。
でも何でわざわざふたつの称号を使ったの?
ひとつの方が楽でいいじゃん!
ふたつの称号を好きに使ったというより、使い分けたといったほうが正しいかもね。
つまり学説のひとつには、「治天下大王」を日本国内向けの称号として使用し、「安東大将軍倭王」は対外向けに使用するという使い分けをおこなったといわれています。
なぜふたつの称号を使い分けたのか
それならなんで称号の使い分けをおこなったの?
それは推測だけど、日本国内で「安東大将軍倭王」と名乗るが正直イヤだったんじゃないかな。
「安東大将軍倭王」は、中国の宋から与えられた宋の家臣としての称号です。
つまり、ワカタケル大王にとって「安東大将軍倭王」と名乗ることは、「自分は宋の家臣です!」と名乗ることと同じことだからです。
つまりワカタケル大王は、日本国内で「宋の家臣」と名乗ることを嫌っていたのではないでしょうか。
なぜなら日本を実際に支配しているのは、ワカタケル大王自身だからです。
実際に古墳時代中期になると、日本国内ではヤマト政権のトップが権力の頂点にたち、ワカタケル大王の時代に大王(おおきみ)という称号も使われるようになりました。
(くわしくはこちらの記事をご覧ください)
だから日本国内では、ワカタケル大王が所有する「天下」があり、それを支配する大王であるという意味を込めて「治天下大王」と名乗ったのでないでしょうか。
しかしこの考え方は、宋などの中国の皇帝の立場からからすれば、完全なる敵対行為です。
なぜならば中国の中華思想(ちゅうかしそう)では、「自分が天下の中心」、つまり中華という考えであるからです。
つまり中国の皇帝からすれば、「天下」とは自分のものひとつだけであり、周辺の野蛮国が自分の「天下」を持つことはありえないからです。
だからワカタケル大王は、宋の皇帝にバレないように日本国内だけで「治天下大王」と名乗り、宋の皇帝の前では「安東大将軍倭王」を名乗ったのです。
律令国家の原点の考え方
しだいにヤマト政権における大王の力が強くなっていくと、日本(倭)では、このような大王の「天下」という考えがより強くなっていきます。
この日本(倭)独自の考えは、7世紀の推古天皇(すいこてんのう)の外交姿勢にも現れます。
推古天皇は、遣隋使(けんずいし)を派遣するのですが、「朝貢はするけれども冊封は受けない」という姿勢をとるようになります。
つまり日本(倭)は、完全には中国皇帝の「天下」には組み込まれないことを宣言したわけです。
(ただし朝貢はしており、中国に対して完全な敵対姿勢をとったわけではありません)
東アジア最強国家である中国に対して、このような姿勢をとったのは日本(倭)だけです。
そしてさらにこの考えが発展すると、8世紀、奈良時代の律令国家(りつりょうこっか)の誕生へとつながっていくわけです。
ちなみに律令国家とは、天皇を中心とする法律に基づく国家のことです。
この日本(倭)における律令国家の原型となったのが、ワカタケル大王(倭王武)の自分の「天下」という考え方であるわけです。
一説には、ワカタケル大王の功績が律令国家によって認めれた証拠があります。
律令国家が初めて作った和歌集である、万葉集(まんようしゅう)において、ワカタケル大王こと雄略天皇の歌が、一番最初に掲載されているのです。
このことから、律令国家におけるワカタケル大王の偉大なる功績がうかがえます。
古墳時代中期の古墳について
ここでは古墳時代中期の古墳のの特徴について見ていきます。
古墳の巨大化
さきほどのとおり、ヤマト政権における大王の権力が大きく拡大したことは、大王の墓である古墳にも影響を与えました。
古墳時代中期になると、前期の古墳とくらべて古墳の規模がさらに拡大したことです。
ちなみに古墳時代中期の古墳は、古墳時代全体において規模が一番大きかった時代といえます。
その証拠に、古墳時代中期に作られた古墳が、全国の古墳の大きさランキングの上位を独占しています。
ちなみに実際のランキングを見ると、
- 第一位 大仙古墳 長さ486m
- 第二位 誉田御廟山古墳 長さ425m
- 第三位 上石津ミサンザイ古墳 長さ365m
- 第四位 造山古墳 長さ350m
- 第五位 河内大塚山古墳 長さ335m
となります。
これらの古墳はある地域に集中して造られたことが特徴です。
たとえば、大仙古墳(だいせんこふん)と、上石津ミサンザイ古墳ですが、大阪府堺市の百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)に属します。
さらに、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と、河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)は百舌鳥古墳群の東の古市古墳群(ふるいちこふんぐん)に属します。
造山古墳(つくりやまこふん)だけは、岡山県にありますが、地元の有力豪族である吉備氏のお墓であるからです。
吉備氏は、日本書紀によるとワカタケル大王こと雄略天皇によって滅ぼされた一族として知られています。
ちなみに古墳時代前期で最大の箸墓古墳(はしはかこふん)はずっと東側にあるオオヤマト古墳群のひとつとなります。
このように見ると、古墳時代中期になると大規模な古墳が瀬戸内海沿岸部に集中して作られているのがわかります。
ではなぜ古墳が瀬戸内海に集中するようになったかというと、一説には朝鮮半島との外交が活発になり、現在の大阪港にあたる難波津(なにわづ)に外交の船がやってくるようになったといわれています。
つまり船に乗る外交の使者に巨大な古墳を見せつけるために、あえて通り道である瀬戸内海沿岸に巨大古墳を作ったのです。
現在の古墳の上には森が広がりますが、当時は古墳の上は白い石で覆われていました。
これを遠くから見ると、「白く光り輝く山」に見えたようで、これで外交の使者たちを驚かせようとしたようです。
副葬品に軍事色が出てくる
つぎに古墳時代中期の古墳の特徴について説明します。
まず古墳時代中期の古墳の石室は、古墳時代前期のものとおなじ竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)が中心です。
(竪穴式石室はこちらの記事をご覧ください)
ただし古墳の副葬品は、鉄製の武具や馬具が中心となり、しだいに軍事色が色濃くなっていきます。
つまり古墳に埋葬されている人物は、武人(ぶじん)的な性格が強くなったということです。
古墳時代前期の古墳の副葬品が銅鏡など呪術的なものであることから、司祭者の性格が強く、これが違いといえます。
このように副葬品に軍事色が強くなった背景には、ヤマト政権が朝鮮半島にたびたび出兵していることがあるといえます。
遺跡による古墳時代中期の特徴
では遺跡からそのほかの古墳時代中期の生活の特徴を見ていきます。
まず、支配者と被支配者層の居住空間が分かれるようになったことが特徴のひとつです。
古墳時代前期には、身分差があるとはいえ、支配者と被支配者層は一緒の区域で生活していました。
しかし古墳時代中期になると、被支配者層の区域から離れた場所に、支配者の居館(きゃかん)が建てられるようになります。
さらに一般庶民の生活においても大きな変化があります。
それは調理施設として釜戸(かまど)が使用されるようになったことです。
これまでは石を組んだ炉(ろ)という焚き火のようなもので調理していました。
釜戸とは大陸から伝わった煮炊きをする調理施設で、火の周りを粘土で覆われているため炉と比べて熱効率がいいのが特徴です。
熱効率がいいということは、使う燃料も少なくて済むため一般庶民に広く普及しました。
使い方としては、たとえば釜戸のうえに甕(かめ)の上に甑(こしき)という底に穴の空いた甕に、「すのこ」という網と米を入れて蒸し米にしました。
まとめ
- ワカタケル大王(倭王武)は国内向けには「治天下大王」、対外向けには「安東大将軍倭王」と称号を使い分けた。
- 推古天皇の代に遣隋使を派遣した際に、隋の皇帝に対して「朝貢はするが、冊封は受けない」という外交姿勢をとった。
その起点となったのがワカタケル大王であるという説がある。 - 古墳時代中期、古墳はさらに大規模となり、おもに瀬戸内海沿岸部に作られた。
その理由として、大規模な古墳を外交の使者に見せつけるためであると考えられている。
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