はじめに
今回の記事では、推古天皇の政治制度である冠位十二階(かんいじゅうにかい)と憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)について説明します。
ところであなたはなぜ冠位十二階が制定され、憲法十七条が施工されたか知っていますか?
推古天皇というとこれらふたつの制度が頭に浮かぶと思いますが理由までわからないという人が多いかもしれません。
では今回はなぜ冠位十二階と憲法十七条ができたかを説明していきます。
第一回遣隋使で屈辱を受ける
ではこれから推古朝の政治改革を説明するのですが、その重要なポイントは、対外政策もからんでいることです。
文帝は律令制度でない日本に不満を持つ
では政治政策にからむ外交政策とは何かというと、遣隋使(けんずいし)の派遣です。
遣隋使というと、小野妹子(おののいもこ)が派遣されるやつ?
いえ、違います。それは607年の第二回遣隋使の方です。
ここで説明するのは600年の第一回遣隋使(だいいっかいけんずいし)の方です。
遣隋使は、史料で確認できる範囲で4回派遣されましたが、その第1回目の遣隋使です。
ちなみに日本(倭)が中国へ使者を派遣するのは、478年の倭王武の南朝宋への使者派遣から約120年ぶりとなります。
(倭王武の宋への使者派遣についてはこちらの記事をご覧ください)
しかしながらこの第一回遣隋使は失敗に終わったようです。
なぜ、失敗に終わった「ようです」というあいまいな表現にしたかというと、日本側の史料、つまり日本書紀には第一回遣隋使について記載されていないからです。
第一回遣隋使について記されているのは、隋側の隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)という史料です。
つまり第一回遣隋使が失敗に終わったという黒歴史であるために、日本側の日本書紀には残されないわけです。
文帝は政治制度や文化が未熟な日本(倭)に不満を持つ
ではなぜ第一回遣隋使が失敗したかというと、どうやら日本(倭)がさまざまな面で遅れていたかららしいのです。
ちなみに第一回遣隋使当時の隋の皇帝は、有名な煬帝(ようだい)の先代の文帝(ぶんてい)の時代でした。
失敗した理由ですが、使節を派遣するときには必ず国の代表者が出した国書(こくしょ)が必要なのですが、どうやら遣隋使の使者にそれを持たせなかったことのようです。
たぶん120年ぶりの外交使節だったこともあり、そのような外交ルールもわからなかったのでしょう。
文帝は国書を持たせなかったことで自分がバカにされたと思ったらしく、使者に「お前は倭でどれくらい偉いのだ?」と尋ねられたようです。
それに対して遣隋使の使者は日本(倭)の氏姓制度(しせいせいど)について話したようなのです。
(氏姓制度についてはこちらの記事をご覧ください)
日本人である遣隋使の使者にとっては当然のことですが、外国人である文帝にとっては「こいつは何を言っているのだ…」となります。
さらには「実はこいつ、倭であまり偉くないんじゃないか?」とも思い、さらにバカにされたと思ったようです。
外交においては「使節の身分」が重要視されます。
つまり、外交の際にはそれなりにその国内で偉い人物を送らないと送られた国のメンツが傷つけられるわけです。
そこで文帝は遣隋使の使者に対して訓じてもう一度出直してくるようにいいます。
文帝がなぜもう一度出直すように伝えたかというと、文帝にとって日本(倭)の政治制度や仏教などの文化レベルが満足できるものではなかったからです。
別の意味でいうと、日本の政治制度や文化が中国風でなかったことに不満であったのです。
俺の国と外交したいのなら、もうちょっと俺をリスペクトしな!顔洗って出直してこい!バカヤロウ!
こうして遣隋使の使者は「日本はいろいろ遅れているぞ」と思いながら急いで帰国し、そのことを受けて様々な改革をおこなうことになります。
つまり推古朝で冠位十二階や憲法十七条といった政策がおこなわれる要因となったのが、この第一回遣隋使の失敗によるものなのです。
第一回遣隋使の失敗を受けてさまざまな改革をおこなう
では推古朝の政治政策について説明します。
あなたは推古朝の政治政策というと、冠位十二階と憲法十七条だけが頭に浮かぶでしょうが、もうひとつ重要な政策があります。
それは小墾田宮(おはりだのみや)の建設です。
まずはここから見ていきましょう。
広い朝庭をもつ小墾田宮を建てる
小墾田宮?あんまり聞いたことないけど…
中学校の社会科では習いませんね。小墾田宮が出てくるのは高校の日本史からです。
小墾田宮(おはりだのみや)とは、飛鳥にある推古天皇の新しい家(宮)です。
この小墾田宮には、これまでの宮にはなかった新たな施設がありました。
これまでの宮は、門をくぐるとすぐに大王の住まいがありました。
しかし小墾田宮は、門をくぐると朝庭(ちょうてい)とよばれる広場が設置されて、その奥に大殿(だいでん)、つまり大王の住まいがあるように設置しました。
この朝庭という場所で、さまざまな儀礼がおこなわれるわけです。
たとえば大王が豪族たちを集めての服属儀礼がおこなわれたし、外国の使節を迎える儀礼などもここで行われました。
じつは住まいの入口に広場が設置されるのは中国でよく見られる方式です。
小墾田宮とは、第一次遣隋使から聞いた情報をもとにして作られた中国風の宮であるわけです。
つまり日本にやってくる外交の使者に中国風の広場をもつ小墾田宮を見せることで、使者を通して隋の皇帝に隋へのリスペクトアピールをする意味があるということです。
ここで重要なのが、小墾田宮に豪族が集められた際にどのような順番で並ぶべきかという問題が起こります。
もちろんそれは序列順となるわけですが、序列の時の基準としたのが冠位十二階(かんいじゅうにかい)となるわけです。
つまり小墾田宮の建築と冠位十二階の制定は、1セットとなる政策となるわけです。
その証拠として、小墾田宮の建築が603年、冠位十二階の制定も603年と同じ年におこなわたことからもわかります。
冠位十二階により、優秀な豪族を抜擢できるようになった
ではつぎに冠位十二階(かんいじゅうにかい)について説明しますが、大王による中央集権体制をめざしておこなわれた政策です。
これまでの身分制度は、氏姓制度(しせいせいど)という氏族ごとに姓(かばね)を与えることで序列をを決めていました。
姓は氏族ごとに与えられるので世襲制です。
これに対して冠位十二階では、大王が冠(かんむり)、つまり帽子を与えました。
この帽子の色や形によって12段階の序列をきめたわけです。
ちなみに一つの色は上・下の2段階に分かれます。
たとえば一番上の徳は大徳(だいとく)と小徳(しょうとく)の2段階に分かれるということです。
この冠位で重要なことは、個人に与えられ、出世も目指せるということです。
さらに冠位は非世襲の一代限りです。
よって父が紫の冠だからといって、子供も同じ紫の冠になるかはわかりません。
この冠位によって、氏族という垣根に関係なく優秀な人材を採用できるようになりました。
ではなぜ優秀な人材が必要かというと、巨大な隋に対応していくためです。
このように冠位十二階について氏姓制度と対比して説明しましたが、重要なポイントがふたつあります。
ひとつめは冠位十二階ができたからといって、氏姓制度が無くなったわけではないということです。
もうひとつは、すべてのヤマト政権にいる豪族が冠位をもらうわけではないということです。
たとえば冠位をもらっていない人として、
- 蘇我氏
- 王族
- 地方豪族
がいます。
つまり冠位が与えられたのは、蘇我氏以外の中央豪族であるということです。
ただし、大王が自ら冠位を与えることによって、大王と冠位を与えられた人の間の上下関係が明確になるというメリットがありました。
さらに先ほど説明したように、氏族に関係なく優秀な人材を採用できるというメリットもありました。
このように冠位によって序列をつけておけば、小墾田宮における並び順問題が解決できます。
さらに遣隋使を派遣した際も、色のついた冠をかぶらせれば隋の側でも見た目でどれくらいの序列かを把握できるわけです。
じつは色や形の違う冠によって序列をつける制度は、中国をはじめとする東アジア世界にも存在しており、冠位十二階はそのマネをしたにすぎません。
つまり冠位十二階も、次にあるであろう第二回遣隋使で隋へのリスペクトアピールをするための対策であるといえます。
儒教を元にした憲法十七条で、豪族を官僚にしていく。
さらに翌604年には憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)が施行されました。
憲法十七条の特徴として、豪族に対して官僚(かんりょう)としての自覚と、大王への服従を説いていることがあります。
さらに仏教や儒教の理念の重視していることも特徴です。
では、実際の憲法十七条の条文から見ていきましょう。
ちなみに憲法十七条の条文については、日本書紀に記録が残されています。
では第一条から第三条までを見ていきます。
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
第一条では、「官僚同士がお互いに仲良くして、お互いに争うな」と説いています。
つまり一致団結が大事であると説いたのです。
なぜ一致団結を説いたかというと、となりの巨大国家である隋にまとまって対抗する必要があるからです。
さらにいえば、たった20年くらい前まで蘇我氏と物部氏が対立したことをふまえての条文ともいえます。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。
第二条では三宝(さんぽう)を敬うことを説いています。
三宝の仏・法・僧とは具体的に、
- 仏→仏像
- 法→仏教の経典
- 僧→お坊さん
のことです。
つまり仏教を敬えということです。
なぜ仏教を敬えと説いたかというと、隋の皇帝が仏教を大事にしているからです。
次の第二回遣隋使を派遣する際の国書には、仏教用語を散りばめなくてはならないので、仏教について学んでいく必要があったのです。
何が言いたいかというと、仏教を大事にする隋の皇帝に気に入ってもらうためのリスペクトアピールということです。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。
ここにある詔(みことのり)とは、天皇の命令書のことです。
つまり第三条は、天皇の命令を承(うけたまわ)ったら必ず従いなさいということであり、大王への服従を説いています。
つづけて「君をば天」とは「主君が上」であり、「臣をば地」とは「家臣が下」ということを指します。
家臣は主君の命令に従うことは絶対であるということです。
この考えは中国の儒教(じゅきょう)に「忠孝(ちゅうこう)」という理念がありますが、「忠」とは主君への服従をさします。
つまり憲法十七条には儒教の理念も含まれているわけです。
これもさきほどの仏教と同じく、中国で作られた儒教を大事にしているという隋の皇帝へのリスペクトアピールです。
さらにこの儒教の「忠」の理念は、官僚にとっての基本といえることです。
官僚にとって自分が仕える主君の命令に従うことは当然のことであり、この「忠」の理念によって日本の中央集権化へとつながっていったともいえます。
こうして推古朝では、小墾田宮の建設、冠位十二階の制定、十七条憲法という改革がおこなわれたわけですが、これらは次の第二回遣隋使を派遣することを意識しておこなわれたということです。
まとめ
- 600年の第一回遣隋使の派遣では、隋の皇帝である文帝は、政治制度や文化が中国風でない日本(倭)に対して不満を持った。
- 日本は次の第二回遣隋使に備えてさまざまな政治改革をおこなった。
- 推古天皇は朝庭という広場をもつ小墾田宮を建設した。
- 朝庭に整列する序列を定めるために冠の色や大きさで12段階の序列にわける冠位十二階を設定した。
- 豪族に官僚としての自覚や大王への服従を説くために憲法十七条を施工した。
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