はじめに
あなたは大化の改新(たいかのかいしん)を知っていますか?
ちなみに蘇我入鹿暗殺事件は、乙巳の変といって大化の改新に含まれていません。
大化の改新とは、乙巳の変のあとの政治改革のことです。
では大化の改新は誰によっておこなわれたか知っていますか?
中大兄皇子と中臣鎌足が頭に浮かびませんでしたか?
それはまちがいです。
では大化の改新でどのような政治改革がおこなわれたかを説明していきます。
大化の改新とは
ここでは大化の改新の概要について説明します。
大化の改新は孝徳天皇によっておこなわれた政治改革
あなたは645年の大化の改新というと、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺している光景が映ると思います。
しかしこれは乙巳の変(いっしのへん)という事件であり大化の改新とは別です。
あくまで大化の改新とは、乙巳の変をうけて646年から649年にかけておこなわれた中央集権化をめざした政治改革のことです。
ここで重要なのは、大化の改新とは孝徳天皇(こうとくてんのう)が中心となって行われた政治改革であるということです。
さらに孝徳天皇の補佐として、右大臣(うだいじん)になった蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)も大化の改新に参加したことも確実視されています。
(この記事では、蘇我倉山田石川麻呂は「石川麻呂」と省略します)
ちなみにそれまでの氏姓制度における大臣(おおおみ)は、孝徳朝で中国風に左大臣(さだいじん)と右大臣の2人に分けました。
つまり石川麻呂は孝徳朝の大幹部といえます。
中大兄皇子とか中臣鎌足が大化の改新をおこなったと誤解しているかもしれませんが、これは日本史の教科書にも載っている事実です。
(孝徳天皇や蘇我倉山田石川麻呂については、こちらの記事をご覧ください)
改新の詔について
646年に大化の改新の詔、一般的に改新の詔(かいしんのみことのり)という政治改革の方針を示しました。
改新の詔の内容はつぎの通りです。
- 従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
- 初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
- 初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
- 旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。
この改新の詔は、日本書紀に書かれているものです。
しかしながら、この改新の詔の内容については研究者の間で疑問が出ています。
つまり日本書紀にある改新の詔は、多くに脚色が加えられたものであり、そのまま実行されたわけではないということです。
一時期は日本書紀にある改新の詔はニセモノで、大化の改新も行われていなかったとする研究者もいたくらいです。
ところが現在では、改新の詔の内容には疑問符がつくが、なんらかの政治改革が行われたことは間違いないということが主流の学説となっています。
孝徳朝の政治政策について
ではここでは、なんらかの政治改革が行われたとして考古学やさまざまな史料から、確実に行われたと考えられる政策について説明します。
難波宮の建設
まず確実に行われた政策のひとつは、新しく大規模な王宮が建てられたことです。
その王宮は、難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)、略して難波宮(なにわのみや)といいます。
場所は現在のNHK大阪放送局の目の前にあり、遺跡として残っているので確実に建設されたものです。
ここで難波宮を大規模な王宮と書きましたが、小墾田宮(おはりだのみや)を更に大きくしたものです。
(小墾田宮についてはこちらの記事をご覧ください)
つまり大きい門をもち、大きい広場をもち、建物も大きくしたものです。
大きい広場は朝庭(ちょうてい)といい、さまざまな儀式が行われるわけです。
ではなぜ朝庭の規模を大きくしたかというと、孝徳天皇は推古朝の冠位十二階から冠位十九階に冠位を拡大したためです。
冠位の範囲を拡大すると、儀式に参加する官僚の数が増えるため朝庭も拡大したと考えられています。
国造を解体し、地方支配の改革をおこなった
さらに孝徳天皇は、国造による地方支配の改革をおこないました。
つまり有力な地方豪族である国造(くにのみやつこ)の支配地域であるクニを解体して、新しく評(ひょう)と五十戸(さと)を設置しました。
ちなみに評(ひょう)と振りましたが、正式には評(こおり)と読みます。
この評は、改新の詔の第2条に関わってきます。
改新の詔の第2条は、
初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
です。
ここに「郡司」とあるので、改新の詔では「郡(ぐん)」があったとされています。
郡とは、律令制度(りつりょうせいど)における「国・郡・里」の「郡」のことで、つまり改新の詔では国(くに)の中に郡があり、郡の中に里(さと)が設置されているとされています。
しかし実際には、国は存在せず、評の中に五十戸が設置されていました。
ちょっと待って!なぜ評の中に五十戸があることがわかるの?証拠があるの?
はい。しっかりとした証拠が残っています。
それが694年に遷都した藤原京(ふじわらきょう)から出土した木簡(もっかん)からわかります。
木簡とは木の板に文字が書かれたものであり、考古学による発掘調査により、当時の行政単位として「郡」ではなく「評」が使われていることがわかったのです。
つまり藤原京の発掘調査から行政単位は、「国・郡・里」ではなく「評・五十戸」が使われていたことがわかったのです。
では「評・五十戸」から「国・郡・里」に変化したのはいつかというと、701年に施工された大宝律令(たいほうりつりょう)からです。
その根拠はなにかというと、710年に遷都した平城京(へいじょうきょう)から出土した木簡からわかります。
評とは国造のクニを解体したもの
でも評ってつかっていたけど、実際に評って何?
そうだったね。では評について説明するよ。
評とは、これまで有力な地方豪族である国造が支配していた領地、つまりクニを分割したもののようです。
常陸国風土記(ひたちこくふどき)という、奈良時代に作られた常陸国、つまり現在の茨城県の情報が書かれた書物があります。
ここには国造のクニをふたつに分割して、それぞれに評が作られたことが書かれています。
つまりクニを分割してそれぞれに評を作ったということは、これまでの国造制を解体したということです。
有力な地方豪族である国造は地方での権力がとても強く、中央であるヤマト政権の権力をおびやかすものでした。
(国造についてはこちらの記事をご覧ください)
しかし中央集権化をめざす孝徳天皇にとっては、権力のある国造の力を減らして、中央の権力を強くしなければなりません。
そこでこれまでの国造のクニをふたつに分割して、そのひとつを元の国造に支配させ、もうひとつを新たな地方豪族に支配させたわけです。
こうすれば、国造のクニを二分の一に減らすことができて権力を弱めることができるわけです。
日本書紀の記録では、大化の改新(645年)ころには国造の支配するクニは120箇所ほどありましたが、50年ほどあとの大宝律令(701年)ころにおける郡、つまり評の数は550箇所となりました。
日本書紀の信憑性は不明ですが、これくらい国造の権力を減らすことができたということです。
ちなみに評の支配者のことを評督(ひょうとく、または、こおりのかみ)といい、のちの律令国家では郡司(ぐんじ)となります。
この国造の解体から、孝徳天皇は強い権力をもつ中央豪族よりも先に地方豪族の解体から手を付けたといえます。
さらにこれに関連して、孝徳天皇は地方豪族の私有民である部曲(かきべ)の解体も行っていったようです。
その一方で、大王や王族の私有民である名代・子代の部や、中央豪族の部曲がりはそのままにしました。
つまり孝徳天皇と石川麻呂は、地方の権力を削って、中央の権力を強くしていくことで、中央集権が強化されたのです。
まとめ
- 646年から649年におこなわれた大化の改新は、孝徳天皇と蘇我倉山田石川麻呂が主導しておこなった政治改革である。
- 日本書紀に書かれている改新の詔は、多くの脚色が加えられており、政治改革が詔のとおりにおこなわれたわけではない。
- 孝徳天皇は地方の国造の解体をおこなった。
- 国造の支配地域、つまりクニを分割して、評(こおり)を設置し、元国造を含む評督に支配させることで中央集権をおこなった。
- 孝徳天皇は地方豪族の私有民である部曲を廃止して中央集権をおこなった。
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