はじめに
この記事では3世紀中ごろから4世紀の古墳時代前期における東アジア(中国と朝鮮半島)情勢と日本との関係について説明していきます。
ところであなたはこのころの東アジアについて想像できますか?
3世紀中頃というと、魏・呉・蜀の三国時代、いわゆる「三国志」の終わりのころです。
このあと西晋(せいしん)が中国を一度統一するのですが、すぐに分裂します。
さらに北方からの異民族も国家を作って、約20カ国ほどに分かれるほどのグチャグチャな分裂となります。
この中国のグチャグチャな分裂は、影響を与えていた朝鮮半島で大きな変化を起こし、このことが日本にも大きな影響を与えることになります。
今回は古墳時代前期の東アジア、特に朝鮮半島と日本の関わりを中心に説明します。
朝鮮半島の中国からの独立
ここでは古墳時代前期、つまり3世紀中ごろに朝鮮半島の中国王朝からの独立していく過程を説明します。
中国の分裂
古墳時代前期とは3世紀中ごろから4世紀までです。
このころの中国について説明します。
まず220年に後漢(ごかん)が滅亡することで中国の統一した王朝が途切れます。
そのあと魏志倭人伝の魏を含む、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三つの国が並び立つ三国時代(さんごくじだい)となります。
ここで中国は3つの国に分裂することになるのです。
そして280年に魏の後継王朝である西晋(せいしん)によりいったんは中国は統一されます。
しかしその西晋も分裂状態となって、五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)という20カ国ほどの乱立状態となります。
つまり3世紀から4世紀にかけての中国は統一王朝のないバラバラな状態であったわけです。
高句麗の建国
このような中国の力が弱いという状況を受けて、朝鮮半島では自立化の動きが起こります。
たとえば4世紀前半になると、朝鮮半島北部で高句麗(こうくり)が台頭し、313年に楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼします。
楽浪郡とは中国王朝が朝鮮半島を支配するために設置した郡のことです。
つまり高句麗が中国王朝の楽浪郡を滅ぼしたということは、高句麗が中国王朝から自立したことを示しています。
さらに4世紀後半になると、高句麗は朝鮮半島の統一を目指して朝鮮半島南部に南進(なんしん)していきます。
高句麗に対抗して百済・新羅が建国される
高句麗の南進政策に対抗して、朝鮮半島南部にある多くの小国は、しだいに国家統合への動きをするようになります。
下の図解で解説します。
高句麗の攻撃目標はB・C・Dですが、とくにBやCは直接高句麗の攻撃を受けることになります。
ちなみにAは馬韓(ばかん)、Bは辰韓(しんかん)、Cは弁韓(べんかん)というのですが、わかりやすくするためにアルファベットで表現します。
これらA・B・Cそれぞれは、邪馬台国連合のような小国連合です。
(邪馬台国連合についてはこちらの記事をご覧ください)
高句麗は独立した統一国家です。
そしてAとBは、高句麗の攻撃を直接受けているわけですが、小国連合のままでは高句麗の耐えられないと考えるようになります。
そこでAとBは、高句麗のような統一国家を作ろうと考えるようになります。
こうしてAには百済(くだら)、Bには新羅(しらぎ)という統一国家が成立することになります。
一方のCでは直接に高句麗の攻撃を受けないので、30カ国から10カ国と、ある程度の集権化の動きはありますが小国連合のままとなります。
よってDは、構成する小国の名前をとって加羅(から)、加那(かや)、任那(にまな)と様々な名称でよばれるようになります。
(ただしここでは便宜上、加那で表現します)
こうして朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の3つの統一国家が成立しました。
しかし弁韓諸国ではある程度の集権化はありましたが、小国連合(加羅、加那、任那)のままです。
日本(倭)の動き
ではこの朝鮮半島の自立化の動きに倭(わ)、つまり日本がどのような行動を取ったか見ていきます。
ちなみに東アジア世界では日本のことを「倭(わ)と呼んでいました。
よってこの「だるまのひすとりー講座」では、東アジアにおける日本を、「日本(倭)」と表現させていただきます。
ご了承ください。
まず高句麗ですが、4世紀の間は新羅が従属に近い外交政策をとっていたため、両国の関係は良好です。
よって4世紀後半の朝鮮半島情勢で注目することは「高句麗VS百済」であるということです。
そして加那は百済を援助していくことなります。
なぜならば百済が滅亡したら、次の高句麗の目標が、加那となるからです。
こうして「高句麗VS百済・加那」という構図ができあがります。
さらに日本(倭)は加那から鉄器などの鉄資源を輸入していたので、加那に付くこととなります。
これに加えて百済も日本(倭)に援助要請をしたことで、両国は372年には同盟関係を結びます。
こうして日本(倭)は、友好関係となった百済・加那側について高句麗と戦ったのです。
好太王碑と七支刀について
では日本(倭)が高句麗と戦った証拠について説明します。
その証拠のひとつに、高句麗の都・丸都(がんと)があった場所に好太王碑(こうたいおうひ)という石碑があります。
この好太王碑とは、高句麗の王である好太王(こうたいおう)が日本(倭)を撃退した功績が書かれた石碑で、息子の長寿王(ちょうじゅおう)が作らせたものです。
この碑文には、391年に日本(倭)と高句麗が戦ったことが記述されています。
つまり古墳時代である4世紀に日本(倭)と高句麗が戦争状態であったことがわかるわけです。
また日本(倭)が百済を助けた証拠として、奈良県の石上神宮(いそのかみじんぐう)がありますが、そこに七支刀(しちしとう)というものがあります。
七支刀とは、刀身に7つの枝がある刀のことで、百済から日本(倭)に贈られたものです。
この七支刀には文字が刻まれており、そこには372年に百済と日本(倭)が同盟を結び、その証拠として七支刀を贈ったことが記されています。
当時のヤマト政権と古墳について
ではここでは古墳時代前期のヤマト政権の状況と古墳について説明します。
文字資料がない古墳時代前期
ちなみにここまでの日本(倭)とは、ヤマト政権のことです。
朝鮮半島情勢と関係する4世紀の「日本(倭)=ヤマト政権」の動きはわかるのですが、これ以上のことはわかりません。
ひとつ目の理由は、4世紀にはまだ日本国内で書かれた文字資料がないからです。
そして2つ目の理由は、中国が分裂して力が弱いためにヤマト政権は朝貢を行わず、そのため中国側の史料もないからです。
ヤマト政権の全国進出
ではどのように古墳時代前期のヤマト政権を知るかというと、物的証拠となる考古学から推測していくしかありません。
この考古学の研究によると、当時のヤマト政権はゆるやかな政治連合(地域連合)だったのではないかと考えられています。
つまり弥生時代の邪馬台国連合と同じような状態だったということです。
(邪馬台国連合についてはこちらの記事をご覧ください)
その証拠についてはのちの古墳のところで説明します。
ここで古墳時代前期のヤマト政権を知るポイントとなるのが、ヤマト政権で作られた前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の分布です。
前方後円墳ですが、4世紀中ごろになると畿内だけでなく、福島県あたりまで分布を広げていきます。
つまり4世紀中ごろには、ヤマト政権の勢力が東北南部あたりまで広がったことを示します。
ちなみに3世紀中ごろの東日本で多く作られていたのは、前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)という四角と四角の形状の古墳です。
つまり東日本には、前方後円墳をそろえて作る何らかの政治連合(地域連合)があったことを示しています。
この前方後方墳の地域にヤマト政権を象徴する前方後円墳が作られたのです。
このことは、ヤマト政権(前方後円墳)が東日本の政治連合(前方後方墳)との戦いに勝ったか、屈服させたことを示します、
実際に5世紀の古墳時代中期になると、東日本で大規模な前方後方墳が作られなくなっていきます。
このようにヤマト政権の勢力は、しだいに日本全国に拡大していったことが推測されるわけです。
古墳時代前期の古墳や副葬品について
ここでは古墳時代前期の古墳の特徴や副葬品について説明します。
竪穴式石室とは
古墳時代前期から古墳時代中期の古墳の最大の特徴として、竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)であることがあります。
なお石室(せきしつ)とは石で囲った遺体を安置する部屋のことです。
部屋には石でできた石棺(せきかん)が置かれ、そのなかには遺体や副葬品を入れられました。
この竪穴式石室とは、前方後円墳の円の中心を上から掘り下げて石室をつくるもので、石室内部も粘土で固め、天井石(てんじょういし)を乗せて土で埋めました。
竪穴式石室の構造が意味するのは、当時の人が土を掘り返して追加で埋蔵することは考えていないということです。
でも考古学者は掘り返すよね。
冗談を言わないで!あくまで当時の人は掘り返さないという意味です!まあ、合ってはいますけどね…
つまり当時の古墳とは、ひとりの権力者(首長)のための古墳であるということです。
ちなみに箸墓古墳は全長280mにもなりますが、なぜ巨大な古墳をひとりのために作るかというと、埋葬された権力者の権威を示すためです。
つまり当時の古墳とは、権威を示す建物、例えばエジプトのピラミッドのようなモニュメントとしての意味合いがあったということです。
古墳時代前期の権力者は司祭者
ではつぎに遺体とともに石棺に収められている副葬品の特徴ですが、銅鏡(どうきょう)などの呪術的なものであることです。
このことから古墳時代前期の権力者(首長)の特徴は、神に祈る呪術者の性格を持つ司祭者(しさいしゃ)であったと考えられます。
さきほど古墳時代のヤマト政権は、弥生時代の邪馬台国連合のような、ゆるやかな政治連合(地域連合)であると説明したのはこのためです。
つまり当時の権力者(首長)も、邪馬台国連合の女王・卑弥呼(ひみこ)のような呪術者的資質をもつ司祭者であったということです。
その意味で古墳時代前期のヤマト政権は、弥生時代の政治連合(地域連合)という政治形態がまだ継続していたといえます。
なお銅鏡で代表的なものに、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)があります。
周囲の縁の部分に三角形のギザギザがあり真ん中に神獣が描かれているため、三角の縁のある神獣鏡ということです。
この三角縁神獣鏡は、おそらく呪い(まじない)の儀式で使用されたものと推測されています。
まとめ
- 古墳時代前期の中国は五胡十六国時代という分裂状態であり、力が弱まっていた。
- そのため朝鮮半島への圧力も弱まったため朝鮮半島北部で高句麗が独立し勢力を拡大した。
- 高句麗は南下政策をおこなったため、直接高句麗と戦った馬韓や辰韓では、権力を集権化させるため百済と新羅が建国された。
- なお高句麗と戦っていない南方の弁韓では集権化の動きがにぶく小国連合が続いた(加羅・加那・任那とよぶ)
- 日本(倭)は鉄資源の確保のために加那が重要であり高句麗からの侵攻を防ぐために、百済と同盟を結んで高句麗と戦った。
- 古墳時代前期の古墳は、ひとりの支配者のための古墳であり、副葬品から当時の支配者は司祭者であったと考えられている。
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