はじめに
あなたは東海道って知っていますか?
東海道とは京都から常陸国(現在の茨城県)まで伸びる道のことです。
江戸時代には、彌次さん喜多さんが活躍する「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」という作品もありました。
ではいつ東海道ができたか知っていますか?
それが律令国家が整備されて時代であり、同じように京都から伸びる道が東海道のほかにも6本作られました。
合わせて七道(しちどう)といわれます。
この記事ではなぜ七道が整備されたかをせつめいしていきます。
中央の命令を地方へ伝達する街道を行政区画にした
では今回から律令制(りつりょうせい)を教えていきます。
今回の記事では律令国家の道(みち)について説明します。
えっ!律令国家って法律に基づいた天皇中心の中央集権国家のことだよね。
法律とか制度とかじゃなくて、道なの?
そうです。道です。道って中央集権国家において、とても重要なものなんだ。その理由について教えるね。
人民に律令を徹底させるには文書で通達する
律令とは法律なので、人民に律令を徹底させるという形で政務がおこなわれていきます。
ではどのようにして人民に律令を徹底させるかというと、文書(ぶんしょ)行政です。
つまり中央(朝廷)から紙や木簡(もっかん)に書いた文書によって命令が伝達されることで律令が徹底されます。
ごめん。木簡って何?
木簡とは板切れのことです。紙は高価なので安価な木の板に文書を書いたんです。
さらに墨で書いた文字は紙だと消せませんが、木簡だと小刀で文字を削り取れば、再び文字が書けるようになる利点があります。
五畿七道とは
律令国家とは、天皇中心の中央集権国家なので、中央が地方を支配する体制となります。
道を通じて中央が地方を支配する
では中央と地方がどこをさしているかというと、五畿七道(ごきしちどう)という律令国家の行政区画が重要となります。
まず五畿(ごき)とは、大和(やまと)・山城(やましろ)・摂津(せっつ)・河内(かわち)・和泉(いずみ)の5つの国を指します。
この五畿とは、平城京(へいじょうきょう)や平安京(へいあんきょう)といった天皇がいる都城(とじょう)の周辺の地域のことです。
これが中央となります。
では地方はどこかというと、五畿以外の七道(しちどう)となります。
ちなみに七道とは上の地図にある、
- 北陸道(ほくろくどう)
- 中山道(なかせんどう)
- 東海道(とうかいどう)
- 山陰道(さんいんどう)
- 山陽道(さんようどう)
- 南海道(なんかいどう)
- 西海道(さいかいどう)
の七つの道です。
では七道と「道」がついているかというと、実際に大きな道、駅路(えきろ)があるからです。
中央(朝廷)が地方を支配するためには、命令を伝えなくてはいけないのですが、そのための命令伝達のために駅路が使われるのです。
古代ではメールとか電話もないので、人の手で中央からの文書を地方へ持っていくしかありません。
さらに地方からの結果報告も、地方の役人が、この官道を通して中央へ伝えます。
中央と地方との連絡の行き来のために、道が使われるから七道なのです。
七道は道だけでなく、行政区画の役割もあった
さらに七道は道としての要素だけでなく、道の周辺の空間も含んだ行政区画としての要素も持っています。
たとえば七道を、現在の関東地方とか、東北地方といったものだと思ってください。
つまり七道とは、道路でもあり、行政区画でもあるということです。
つまり七道によって中央と地方がつながっているからこそ、中央集権国家といえるのです。
ちなみに七道それぞれの中には、最初の地図のようにいくつかの国(くに)が含まれており、そのなかに郡(ぐん)があり、そのなかに里(さと)があります。
いわゆる国郡里制(こくぐんりせい)です。
西海道は大宰府が直接に統括した
あの…七道(7本の道)が中央とつながっていると言っていたけど、上の図をみると中央とは6本としかつながっていませんか?
そうですね。現在の九州地方にあたる西街道は中央と直接つながってなくて独立してるね。でもそれだけ西海道はとても大事な存在なんです。
この理由について説明します。
律令国家とは、軍事国家であり、その理由は他の国が攻めてくる可能性があるからです。
そしてそのきっかけは、663年の白村江の戦いで日本が中国の唐(とう)に大敗北して、唐が逆に日本に攻めてくるかもしれないという状況になったからだとも説明しました。
(このことについては、こちらの記事をご覧ください)
では、もしも唐が日本に攻めてきたら、日本を防衛する最前線はどこになるでしょうか?
それは、九州地方、つまり西街道だよね。
そうだよね。だからこそ西街道を単独で独立させたんだよ。
つまり西街道は国防における最重要拠点であるから、独立して存在しているのです。
このように西街道はとても重要な場所にあるのですが、中央からはとても離れています。
では西街道にもしも唐が攻めてきた場合に、どこ子を使って報告するのでしょうか?
それは山陽道です。
中央と最重要拠点である西海道をつなぐ重要な道だから、山陽道と付けられているのです。
山陰道にある島根県や鳥取県の人口が少ないから山陰道ではありませんよ。
さらに西海道のみを管轄するための組織まで置かれました。
江戸時代になると、江戸と京都をつなぐ東海道が重要な道となるのですが、古代では山陽道が最も重要な道となります。
西海道だけは大宰府が管理した
しかし西海道が山陽道を通って情報が伝達できるとはいえ、唐の攻撃などの緊急事態の場合、中央からの連絡が待てないこともあります。
そのために中央(朝廷)は、西海道のみを管轄するための組織がありました。
それが大宰府(だざいふ)です。
大宰府は西海道に関する支配権を持つだけでなく、国防の面から西海道から集まる税の大部分を使用できる権限も持っていました。。
その絶大な権限から、大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれていました。
駅制と関所について
ここでは律令国家の道に関する補足説明をしていきます。
駅制によって、中央と地方を早く移動できた
このように中央(朝廷)と地方は七道という駅路で結ばれていたわけですが、これだけでは機能しません。
なぜならば、人が長い距離文書を走って届けていたら遅いし死ぬ危険もあるので、さまざまな工夫が必要となります。
その対策として、駅路の道沿いに作られたのが駅家(えきや)という施設です。
駅家にはつねに一定の馬が待機しており、宿泊施設も備えられていました。
これが30里(約16km)ごとに設置されていたわけです。
文書を持って移動する役人のことを駅使(えきし)というのですが、彼らは駅家を使って馬を定期的に交換したり休憩することで、早く中央と地方を行き来できたわけです。
このように定間隔にある駅家によって早く中央と地方との連絡ができるからこそ、日本は中央集権国家といえるのです。
ただし駅使が駅家を利用するためには、自分が中央または地方から派遣された正式な駅使であると証明する必要があります。
その証拠品として使われたのが、駅鈴(えきれい)という鈴(すず)です。
(下の図の駅使がジョッキーで、駅鈴が熊よけの鈴である点は無視してください。あくまでイメージです)
なお駅家・駅馬の管理ですが、中央や地方の役所がおこなったわけではありません。
駅戸(えきこ)という、駅家の周辺に住む一般庶民たちに駅家や馬の管理を義務つけていました。
そのかわりに駅戸には、駅田(えきでん)という田地が支給されたり、税が一部が免除される優遇措置がありました。
このような中央と地方をつなぐ駅路や駅家などの交通制度を駅制(えきせい)といいます。
ちなみに国のなかにある国府や郡家をつなぐ伝路(でんろ)に関する交通制度を伝馬制(でんませい)といいます。
そしてこれらをまとめて駅伝制(えきでんせい)ともいいます。
敵の侵入や逃亡を防ぐために関所が設置された
また駅路には関所(せきしょ)という、検問施設が設置されました。
関所というと、江戸時代では「入り鉄砲に出女」、つまり江戸への鉄砲の持ち込みと、大名の人質の妻子供の江戸脱出を監視するために置かれていました。
では古代における関所とは、軍事的な役割をもって五畿を防衛する役割がありました。
たとえば関東地方などの東国(とうごく)と言われる地域は、坂東武者(ばんどうむしゃ)に代表されるような軍事力が強かった地域としてしられています。
もしも東国で中央(朝廷)への反乱が起こった場合、五畿に侵入するのは困るわけです。
よって東国で反乱が起こると、固関(こげん)といって関所を閉鎖することによって敵の侵入を防いだのです。
ちなみに古代で代表的な関所として、
- 鈴鹿関(すずかのせき)
- 不破関(ふわのせき)
- 愛発関(あらちのせき)
という三関(さんせき)があります。
(ただし愛発関については、越前国にあるのですが、詳しい場所はわかっていません)
なお関所の役割は、東国で反乱を起こした敵の侵入をふせぐだけではありません。
畿内で謀反を起こした軍が、逆に東国へ逃亡する際に、固関によって東国への逃亡を防ぐこともできました。
まとめ
- 中央と地方は五畿と七道によって区別された。
- 七道とは、中央(朝廷)と地方をつなぐ道であり行政区画でもあった。
- ただし敵対する可能性がある唐と接する西街道のみは中央(朝廷)とは直接つながっておらず、大宰府が直接支配した。
- 中央と地方をつなぐ道は駅路とよばれ、16kmごとに駅家という馬と宿泊機能がある施設が置かれた。
- 古代の関所は、軍事目的のために作られた。
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