はじめに
あなたは弥生文化と聞いて何を想像できますか?
縄文文化だと縄文土器が思い浮かびますよね。
でも弥生文化というと「う~ん…」という人が多いのではないでしょうか。
弥生文化とはおおまかにいうと水田稲作(すいでんいなさく)など大陸からの文化に縄文文化が合わさったものです。
例えば水田稲作で使う農具とか、米を調理したり盛り付ける土器とか、斧(おの)などの金属でできた道具などです。
では今回は弥生文化についてくわしく説明していきます。
弥生文化について
ここでは弥生文化について説明します。
弥生文化とは何か
まず弥生文化(やよいぶんか)とは、弥生時代に渡来人から伝わった大陸文化のことです。
渡来人からの大陸文化は、
- 水稲稲作などの農耕
- 青銅器・鉄器の金属器
が中心です。
この弥生文化の大きなポイントは、縄文時代の文化から大陸からの文化にすべて変更されたのではなく、これらが融合(ゆうごう)されているということです。
ではこれから弥生文化が縄文時代の文化と大陸からの文化の融合であることについて説明します。
採集以外の他の手段として農耕も加えた
まず弥生時代の人々は、これまでの自然食材の採集生活をすべて放棄して、水田稲作一本で生活したわけではありません。
つまり弥生時代では、縄文時代以来の採集生活を維持したまま、水田稲作も食材を獲得する手段として新しく加えたということです。
なぜならば水田稲作などの農耕生活は、天候により収穫量が左右されるからです。
もし水稲の収穫が少なければ、全員が餓死(がし)してしまうことになってしまいます。
よって秋の収穫が終わったあとから春までの農業がない時期(農閑期)には、縄文時代依頼の採集生活がおこなわれていたわけです。
縄文時代からの文化である採集生活と、大陸からの文化である農耕生活が融合しているということです。
弥生土器は縄文土器と大陸の土器を融合したもの
さらに大陸の土器の技術により弥生土器(やよいどき)というものが作られました。
しかしこの弥生土器も大陸の技術をそのまま使って作られた土器ではなく、縄文土器の技術に、大陸の土器の技術を融合して作られたものです。
つまり弥生文化とは縄文時代の文化(旧来の文化)と大陸からの文化(新しい文化)の融合であるということです。
弥生土器についてはのちほど説明します。
水田稲作について
ここでは弥生文化のひとつである水田稲作についてくわしく説明します。
水田は湿田から乾田へと進化
弥生時代の水田稲作の特徴は、小区画規模の水田に灌漑(かんがい)・排水(はいすい)施設が備わっていることです。
灌漑施設とは、水を水田に入れることもできるし抜くこともできる施設です。
排水施設とは、水田から水を抜くだけの施設です。
水田には湿田(しつでん)と乾田(かんでん)の2種類がありますが、灌漑設備は乾田、排水施設は湿田で使用されます。
どういうことか説明します。
湿田は川の近くにある沼地を水田にしたものなので、湧き水(わきみず)を抜く排水設備があれば成立しました。
しかし湿田では、つねに排水しているので、土の栄養分が抜け稲の生産性が低いという欠点があります。
その一方で乾田とは、通常は乾(かわ)いた水田で、灌漑設備によって必要なときだけ水を入れたり抜いたりします。
よって乾田では、必要な時期だけ水を入れるので土の栄養分が抜けにくく稲の生産性が高いのが特徴です。
つまり排水設備だけの湿田に比べて、水を入れたり抜いたりする灌漑設備が必要な分、乾田の方が高い技術力を必要とするのです。
このように弥生時代初期では湿田・乾田両方がありましたが、弥生時代後期になるとしだいに乾田の比重が高くなります。
水田稲作で使われた道具について
つぎに水田稲作に関する道具について説明します。
道具は水田稲作の工程といっしょに説明しますので、下の図も見てください。
(ちなみに乾田である場合です)
まず水田に水を入れずに耕作します。
その際は木製の鋤(すき)や鍬(くわ)を使って土に空気を入れて柔らかくします。
次に水田に水をいれて、土と混ぜて泥(どろ)にしますが、その際に足に履いたのが広い田下駄(たげた)です。
なぜ田下駄を履いたかというと、素足で泥に入ると足が沈んでしまい抜けなくなってしまいます。
そして種籾(たねもみ)をまいて、稲が収穫できるまで育ったら収穫です。
収穫の際には、石包丁(いしぼうちょう)を使って、稲の穂先のみを刈る穂首刈り(ほくびがり)で収穫しました。
あれ、鉄の鎌を使って根っこから刈るんじゃないの?
当時は稲の品種がバラバラだから成長具合にもばらつきがあったんだ。
よって水田稲作が伝わったころは、成長した稲から石包丁を使ってひとつひとつ穂首刈りで収穫していったのです。
なお稲の品種が統一して鉄鎌(てつかま)が一般に普及すると、鉄鎌で根元から刈る根刈(ねかり)で収穫するようになります。
そして食べるときには、木臼(きうす)と竪杵(たてきね)で脱穀(だっこく)してから調理しました。
では収穫した稲を食べないで保管する場所はどこかというと高床倉庫(たかゆかそうこ)です。
高床倉庫の内部には弥生土器の壺(つぼ)が置かれてその中で保存しました。
ちなみに高床であるのは、湿気を防ぐためと、ネズミなどの害獣から稲を守るためです。
よって高床の柱には、「ねずみ返し」という板も設置されていました。
つぎにさきほどの壺を含めた弥生土器(やよいどき)について説明します。
以前の弥生土器の特徴は、縄文土器と比べて薄くて赤褐色(せきかっしょく)であると説明されていましたが、現在ではあまり重要でなくなっています。
現在における弥生土器の最大の特徴は、用途で形を変えたということです。
例えば、保管用の壺、煮炊き用の甕(かめ)、盛り付け用の鉢(はち)・高坏(たかつき)といった感じです。
次に壺に保管した稲を食べるとなるときに必要なのが脱穀(だっこく)という作業です。
壺に稲を保管する際は、湿気で腐るのを防ぐためもみ殻がついた状態で保管したので、もみ殻を外す脱穀作業が必要なのです。
この脱穀作業の際には、竪杵(たてきぬ)と木臼(きうす)を使用しました。
金属器について
ここでは弥生文化のひとつである金属器についてくわしく説明します。
日本へは青銅器と鉄器が同時に伝わった
まず金属器ですが、銅にスズという金属を加えた青銅器(せいどうき)と、鉄でできた鉄器(てっき)のふたつに分かれます。
ヨーロッパや中国においては、石器→青銅器→鉄器という順序で進化したのが特徴です。
しかし日本は少し変わっています。
日本では石器→青銅器・鉄器と進化したのです。
つまり日本では、朝鮮半島から青銅器と鉄器が同時に伝わったということです。
その理由は、朝鮮半島において青銅器と鉄器が同時に存在する状態で、日本へと伝わったからです。
ちなみに青銅器より鉄器のほうが堅いのでより進化した金属器となります。
鉄器は実具として使用されたが、自給できないので貴重
鉄器は青銅器よりも堅いので、武器や農具などといった実用具として使用されました。
しかし水田稲作の道具について説明しましたが、弥生時代は鉄鎌をのぞいて基本は木製です。
なぜならば鉄器はとても貴重な品物だからです。
弥生時代初期の鉄器というと、鉄鎌とか木製の農具を加工する道具しかありませんでした。
なぜ鉄器は貴重なの?
それは弥生時代では鉄器が自給できなくて輸入するしかなかったからだよ。
鉄器が原料から完全自給できるようになるのは古墳時代後期の6世紀からです。
それまでは朝鮮半島から輸入する必要がありました。
古墳時代中期(5世紀ころ)からは、日本国内でも鉄を加工できるようになりましたが、鉄素材は朝鮮半島から輸入するしかありませんでした。
よって日本に権力者が登場しクニが作られると、鉄器を手に入れるために朝鮮半島へ積極的に進出するようになります。
(くわしくはこちらの記事をご覧ください)
青銅器は祭祀の道具として使用された
では青銅器はどのように使われたのでしょうか?
実は青銅器は、宗教的な行事、つまり祭祀(さいし)の道具として使われました。
なぜならば青銅器は磨くと金色に光るからです。
さらに銅像をみてもわかるように、さびにくいことも特徴です。
祭祀の道具のひとつに銅鐸(どうたく)がありますが、通常は「大地の力」をためるため土の中に保管していました。
そのため水分がある土の中でもさびにくい青銅でできた銅鐸が使用されたのです。
とくに島根県の荒神谷遺跡からは、銅鐸のほかにも銅剣(どうけん)や銅矛(どうほこ)が大量に出土しました。
銅剣や銅矛には刃がついていないことから、イミテーションとしての祭具として使用されたことがわかります。
まとめ
- 弥生時代でも水田稲作だけでなく、縄文時代からの採集生活はつづいていた。
- 水田稲作の農具は石包丁をのぞいて木製。
- 稲の収穫は石包丁で穂首刈りで収穫し、収穫した籾米は高床倉庫に保存した。
- 弥生土器は用途ごとに形状が変化した。
- 朝鮮半島から青銅器や鉄器といった金属器が伝来したが、青銅器は祭器、鉄器は実用具として使われた。
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