はじめに
あなたは弥生文化と聞いて何を想像できますか?
縄文文化だと縄文土器が思い浮かびますよね。
でも弥生文化というと「う~ん…」という人が多いのではないでしょうか。
弥生文化とはおおまかにいうと水田稲作(すいでんいなさく)など大陸からの文化に縄文文化が合わさったものです。
例えば水田稲作で使う農具とか、米を調理したり盛り付ける土器とか、斧(おの)などの金属でできた道具などです。
では今回は弥生文化についてくわしく説明していきます。
水田稲作の日本国内での伝来について
日本の水田稲作は、朝鮮半島から九州北部に渡ってきた渡来人(とらいじん)によって伝えられました。
ちなみに九州北部にある水田稲作の遺跡としては、佐賀県の菜畑遺跡(なばたけいせき)と、福岡県の板付遺跡(いたづきいせき)が有名です。
水田稲作は日本全国ではなく、本州・四国・九州のみであり、北海道や沖縄などの南西諸島は伝わりはしましたが普及はしませんでした。
この理由についてはこちらの記事をご覧ください。
では九州北部から日本国内へ水田稲作はどのように伝わったのでしょうか?
水田稲作は西にある九州から東へと広がっていきました。
しかしここで注意したいのは、関東地方よりも北陸経由で東北地方のほうが先に水田稲作が伝わったことです。
ちなみに東北地方では青森県まで水田稲作が伝わっており、証拠として砂沢遺跡(すなざわいせき)があります。
この砂沢遺跡は弥生時代前期の遺跡で、早いうちから水田稲作が青森県に伝わったことがわかります。
さらに同じ青森県では垂柳遺跡(たるやなぎいせき)から、弥生時代中期の水田跡が見つかっています。
このように東北地方の北限まで水田稲作が伝わっていました。
ではなぜ関東地方の水田稲作の普及が、東北地方よりも後になったのでしょうか?
それは関東地方がとても温暖であり、自然食材がとても豊かだったからです。
とくにクリやクルミなどのおいしくて栄養のある木の実が収穫できる落葉広葉樹(らくようこうようじゅ)が多くありました。
つまり関東地方では縄文時代以来の採集生活がうまくいっており、水田稲作をおこなう必要がなかったということです。
弥生文化は古い文化と新しい文化の融合
弥生時代の文化である弥生文化(やよいぶんか)の大きな特徴は、昔からの縄文文化と新しい大陸の文化が融合したものであるということです。
農耕生活を行いながら縄文時代の採集生活も継続した
ここまでの説明を聞くと、弥生時代の人々は水田稲作などの農耕生活だけで生活していたというイメージがあると思います。
しかしここで注意してほしいことがあります。
弥生時代の人々は、縄文時代からの採集・漁労・狩猟といった採集生活をすべて捨てて、水田稲作などの農耕生活一点に集中していたわけではないということです。
弥生時代では、農耕生活に加えて、これまでの採集生活も継続していました。
なぜならば農耕生活は天候などの要因で、年によって収穫量が左右されるからです。
もし収穫の少ない年だと、採集生活の保険がなけれは全員が餓死(がし)してしまう危険があります。
よって秋の収穫が終わったあとから春までの農業がない時期(農閑期)には、これまでの採集生活がおこなわれていました。
つまり弥生時代は水田稲作などの農耕生活が本格化したというイメージが強いですが、縄文時代からの採集生活もこれまで通り続いていたということです。
弥生土器は縄文土器と大陸の土器を融合したもの
さらに弥生時代には、大陸から土器(どき)や金属器(きんぞくき)などの外国の技術も入ってくるようになります。
そのなかでも大陸の土器の技術によって作られたのが弥生土器(やよいどき)で、縄文土器より少し硬い土器です。
ただしここでも注意したいのは、弥生土器とは大陸の技術をそのまま使って作られた土器ではないということです。
縄文時代からある縄文土器の技術に、大陸の土器の技術をかけ合わせて作られたものです。
つまり弥生文化とは、古い文化(縄文文化)と新しい文化(大陸からの文化)を融合して作られたものであるということです。
水田稲作について
ではまず水田稲作についてくわしく説明します。
水田は湿田から乾田へと進化
弥生時代の水田稲作は、「小区画規模の水田に灌漑(かんがい)・排水(はいすい)施設が備わっていた」ことが特徴です。
灌漑とは、水を水田に入れることもできるし抜くこともできるということです。
排水とは、水田から水を抜くだけです。
水田には湿田(しつでん)と乾田(かんでん)の2種類があります。
まず湿田とは、沼地などの湿地(しっち)を水田にしたもので、水が湧き出るので水を抜く排水設備があれば成立しました。
しかしつねに排水しているので土の栄養分が抜けて稲の生産性が低くなるという欠点があります。
その一方で乾田とは、通常は乾(かわ)いており、灌漑設備によって水を入れたり抜いたりできる水田のことです。
灌漑設備により大量の水が必要な時期だけ水を入れられるので土の栄養分が抜けにくいのが特徴です。
つまり湿田よりも乾田のほうが灌漑設備が必要な分、高い技術力を必要とするのです。
よって弥生時代の水田は、はじめのころは湿田が中心でしたが、しだいに高い技術力を必要とする乾田が中心になります。
弥生時代の水田は、弥生時代前半においては湿田(しつでん)といって、もともとは沼地などの湿地を水田にしました。
なぜならば、湿田だと水がわきでるので水を引き入れる必要がなく排水設備があるだけでいいからです。
よって弥生時代後半になると、水を入れたり抜いたりできる灌漑設備がある乾田(かんでん)が多くなります。
水田稲作で使われた道具
ではつぎに水田稲作の流れとともに、使用された道具について説明します。
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水田稲作の過程は、おもに次のとおりです。
(乾田の場合です)
- 乾いた水田を耕す。
- 水を入れて土と混ぜて平らにする。
- 種籾をまく。
- 穂先のみを収穫する。
- 種籾のまま保管するか、食べるときは脱穀(だっこく)する。
まず乾いた水田を耕して土をやわらかくします。
その際には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)を使用しました。
つぎに水田に水をいれてから、鋤と鍬で土と混ぜることで泥(どろ)にしていきます。
その時に足に履いたのが広い田下駄(たげた)という道具です。
なぜ田下駄を履いたかというと、素足で泥のある水田に入ると足が沈んでしまうからです。
泥をたいらに均(なら)した水田に、稲の種である種籾(たねもみ)を直接まきます。
なお、のちにはあらかじめ種籾から芽を出した状態、つまり苗(なえ)を植える田植え(たうえ)をおこないました。
そして稲が収穫できるまで育ったら収穫です。
収穫のときには、石包丁(いしぼうちょう)を使って、稲の穂先のみを刈る穂首刈り(ほくびがり)で収穫しました。
穂首刈りで収穫したのは、水田稲作が伝わったころは稲の品種が複数でまざっており、成長の早さがそれぞれ違うからです。
つまり水田稲作が伝わったはじめのころは、成長した稲から石包丁を使ってひとつづつ穂首刈りで収穫したということです。
なお稲の品種が統一し鉄鎌(てつかま)が普及すると、稲を鉄鎌で根元で刈る根刈(ねかり)で収穫するようになります。
そして収穫された稲は、天日で半月ほど乾燥させて籾殻(もみがら)が付いた籾米(もみこめ)の状態で長期保存ができるようにしました。
そして食べるときには、木臼(きうす)と竪杵(たてきね)で脱穀(だっこく)してから調理しました。
収穫された籾米は高床倉庫に保管
そして収穫された籾米は弥生土器の壺(つぼ)に入れられ、高床倉庫(たかゆかそうこ)という建物に保管されました。
![inasaku-denrai-05](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/image.jpeg)
高床倉庫は高い柱のうえに建てられています。
その理由として、
- 風通しをよくして湿気で籾米が腐ることを防ぐため。
- ネズミなどに籾米が食べられることを防ぐため。
ということがあります。
とくにネズミについては、高床倉庫の柱の途中で「ねずみ返し」という板をはめることで建物への侵入を防ぎました。
弥生土器は用途に応じて形を変えた
ではつぎにさきほどの壺を含めた弥生土器(やよいどき)について説明します。
以前の弥生土器の特徴は、縄文土器と比べて薄くて赤褐色(せきかっしょく)であると説明されていましたが、現在では重要でなくなっています。
現在における弥生土器の最大の特徴は、用途で形が変わるということです。
![](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/4c6cd4e74ee42bfa1035b92dc10887d2-1-800x534.png)
例えば、
- 保管用の土器→壺(つぼ)
- 煮炊き用の土器→甕(かめ)
- 盛り付け用の土器→鉢(はち)、高坏(たかつき)
と用途で形が変わっていることが弥生土器の特徴です。
弥生土器については、現在は石碑(せきひ)が残るのみですが、東京都の弥生町遺跡(やよいちょういせき)が有名です。
なお弥生町遺跡から発掘された弥生土器の複製は、文京ふるさと歴史館に展示されています。
儀式用の青銅器、実用の鉄器
弥生時代には、大陸から金属でできた道具である金属器(きんぞくき)が伝わりました。
日本へは青銅器と鉄器が同時に伝わった
金属器は、銅にスズという金属を加えた青銅器(せいどうき)と、鉄でできた鉄器(てっき)とに分かれます。
ヨーロッパや中国においては、石器のあと青銅器が開発され、鉄器へと進化しました。
それに比べて朝鮮半島から日本へは、青銅器と鉄器が同時に伝わったことが特徴です。
その理由は、朝鮮半島で青銅器と鉄器が同時にある状態で日本に伝わったからです。
つまり、
- ヨーロッパ・中国などでは「石器→青銅器→鉄器」の順で進化した。
- 日本では「石器→青銅器・鉄器」と同時に伝わった。
ということです。
ちなみに青銅器より鉄器のほうが強度が強いのでより進化した金属器となります。
鉄器は輸入でしか入手できなかったから貴重
さきほど水田稲作の道具について説明しましたが、鉄鎌をのぞいて基本は木製です。
なぜならば鉄器はとても少なく貴重であるからです。
実際に弥生時代初期の鉄器は、鉄鎌や斧(おの)など木製の農具を加工する道具しかありませんでした。
ではなぜ鉄器が少なくて貴重だったのでしょうか?
それは弥生時代初期の日本国内では、鉄鉱石が見つかっておらず、鉄を加工する技術もなかったため、鉄器は朝鮮半島から輸入するしかなかったからです。
古墳時代中期(5世紀ころ)になると、日本国内でも鉄を加工できるようになりましたが、鉄素材は朝鮮半島から輸入するしかありませんでした。
鉄器は青銅器よりも強度があるので、武器や農具として使用できれば、他よりも大きな軍事力や経済力を得ることができました。
よって日本国内で広い地域を支配する政治連合が生まれると、他の政治連合との戦争で勝つため、多くの鉄器を手に入れようと朝鮮半島に進出するようになります。
(詳しくはこちらの記事をご覧ください)
青銅器は祭祀の道具として使用された
ではもう一方の青銅器はどのように使われたのでしょうか?
実は青銅器は、宗教的な行事、つまり祭祀(さいし)の道具として使われました。
なぜならば青銅器は磨くと金色に光るからです。
さらに銅像をみてもわかるように、さびにくいことも特徴です。
祭祀の道具のひとつに銅鐸(どうたく)がありますが、通常は「大地の力」をためるため土の中に保管していました。
![](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/1bc230818af0bbb968eaea8297d5be1e-800x534.png)
そのため水分がある土の中でもさびにくい青銅でできた銅鐸が使用されたのです。
とくに島根県の荒神谷遺跡からは、銅鐸のほかにも銅剣(どうけん)や銅矛(どうほこ)が大量に出土しました。
銅剣や銅矛には刃がついていないことから、イミテーションとしての祭具として使用されたことがわかります。
まとめ
- 日本で最初に水田稲作が普及したのは、朝鮮半島にいちばん近い九州北部である。
- 水田稲作は、九州北部から北上して伝来するが、東北地方から先に普及し、関東地方が最後に普及した。
- 弥生時代でも水田稲作だけでなく、縄文時代からの採集生活はつづいていた。
- 水田稲作の農具は石包丁をのぞいて木製。
- 稲の収穫は石包丁で穂首刈りで収穫し、収穫した籾米は高床倉庫に保存した。
- 弥生土器は用途ごとに形状が変化した。
- 朝鮮半島から青銅器や鉄器といった金属器が伝来したが、青銅器は祭器、鉄器は実用具として使われた。
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