【奈良時代の女帝】聖武天皇が成長するまでの中継ぎで女帝が誕生した!

日本史

はじめに

あなたは奈良時代に女帝が多いと思いませんか?

奈良時代の女帝というと、聖武天皇の娘である孝謙天皇(こうけんてんのう)や称徳天皇(しょうとくてんのう)が浮かぶと思います。

これらの天皇は同一人物で2代となるわけですが、これ以前にも奈良時代には元明天皇(げんめいてんのう)、元正天皇(げんしょうてんのう)がいます。

今回は元明天皇、元正天皇が女帝となった理由について説明します。

(孝謙天皇についてはのちの記事で説明します)

奈良時代に女帝が多い理由

奈良時代に女帝が多い理由について説明します。

草壁直系による継承を確立させる

持統天皇(じとうてんのう)は自分の血を引く孫の文武天皇(もんむてんのう)に皇位を継承させるために天皇を引退して代わりに政治をおこなうことになります。

そして持統天皇は自分が亡くなった後も想定して、文武天皇を補佐する勢力を作ります。

まず文武天皇の妻として、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である藤原宮子(ふじわらのみやこ)を迎えて有力貴族である藤原氏のバックアップを得ます。

藤原不比等は大宝律令(たいほうりつりょう)を作った有能な貴族であり、貴族代表として文武天皇を補佐させます。

さらに信頼できる高市皇子(たけちのみこ)の息子である長屋王(ながやおう)に文武天皇の妹を嫁がせます。

こうして長屋王を貴族代表として文武天皇を補佐させます。

さらに持統天皇は、藤原不比等の娘を長屋王に嫁がせることで、文武天皇、藤原不比等、長屋王の3者による政権運営を期待したのです。

(くわしくはこちらの記事をご覧ください)

文武天皇の若すぎる死

こうして準備を整えたあと、持統太上天皇は702年に亡くなり、文武天皇の時代がやってきます。

しかし文武天皇がこのあとの日本史において、あまり存在感を示すことはできませんでした。

なぜならば文武天皇は病弱であり、707年に25歳という若さで病気で亡くなってしまうからです。

文武天皇と藤原宮子との間には首皇子(おびとのおうじ)がいて、首皇子は将来、藤原不比等の娘である藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)と結婚する約束でした。

しかし首皇子は当時8歳と幼いことが問題でした。

当時の天皇は律令国家の最高権力者であり、幼い状態で即位させることに疑問を持つ声もありました。

文武天皇もこのような反対意見もあり、15歳まで待ってから即位させています。

成長するまでの中継ぎの天皇

つまり首皇子が成人するまでは、だれかが中継ぎの天皇にならなくてはならないということです。

そこで異例ではありましたが、世代が戻り、文武天皇の母である阿倍皇女が元明天皇(げんめいてんのう)として即位します。

この元明天皇の時代に平城京遷都が実現しています。

そして元明天皇の次には、715年に文武天皇の妹が元正天皇(げんしょうてんのう)として即位します。

ちなみに元明天皇が引退したのは、高齢のため政治に疲れたからです。

学ぶ一般人
学ぶ一般人

思ったんだけど、天皇になる人って親の血筋も重要でしょ。彼女らは大丈夫なの?

だるま先生
だるま先生

その点は心配ありません。

血筋の点は心配ありません。

まず元明天皇の父親は天智天皇(てんじてんのう)であり、持統天皇の母違いの妹にあたりますし、母親も蘇我氏の娘です。

そして元正天皇は文武天皇の妹なので、父は草壁皇子で、母は元明天皇と天皇の血筋としては問題点はないわけです。

このようにして首皇子、つまりのちの聖武天皇(しょうむてんのう)が成長するまで時間稼ぎをおこなったわけです。

つまり元明天皇や元正天皇という女帝が続いて誕生したのは、幼い聖武天皇が成長するまでの中継ぎの天皇が必要であったからです。

このようにして724年、23歳で聖武天皇が即位することになるのです。

聖武天皇の即位した年齢が、父の文武天皇の即位した年齢よりも遅いのは、彼が病弱であったことを不安視されたこともあるようです。

文武天皇から元正天皇までの政治

ではここでは元明天皇・元明天皇時代の政治についてみていきます。

太政官の中心人物について

まずここで重要なのは、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の存在です。

彼女は藤原不比等の後妻ですが、持統天皇の女官のトップ(尚侍)であるため、持統天皇との関係が良く、さらに元明天皇からも信頼されていました。

そのため太政官の中心は、ひきつづき藤原不比等となります。

そして720年に藤原不比等が亡くなると、藤原不比等の息子たちより位階が高い長屋王が太政官の中心となります。

ここで藤原不比等や長屋王が太政官のトップでいられる理由ですが、天皇家と親戚関係にあるからです。

藤原不比等は文武天皇の義理の父に当たりますし、長屋王は元明天皇の義理の息子であり、元正天皇にとっては義理の弟に当たります。

つまり太政官の権力者は、天皇家となんらかの縁戚関係があるということです。

このことは奈良時代すべてにいえることです。

文武天皇から元正天皇までの政策

まず文武天皇の時代ですが、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されます。

そして翌702年には、約30年ぶりに大宝の遣唐使(たいほうのけんとうし)が派遣されています。

文武天皇は早くに亡くなっているので、政策はこれくらいです。

つぎに元明天皇・元正天皇の政策です。

まず元明天皇の時代ですが、710年に平城京遷都がおこなわれ、貨幣(かへい)が富本銭(ふほんせん)に代わって和同開珎(わどうかいちん)が作られたのもこの時代です。

また元明天皇の時代の712年に古事記(こじき)が作られ、元正天皇の時代の720年に日本書紀(にほんしょき)といった天皇家の歴史書が完成しました。

まとめ

  • 持統天皇は自分が亡くなった後の文武天皇の補佐役として貴族代表・藤原不比等、皇族代表・長屋王を置いて、702年に死去する。
  • しかし707年に文武天皇が死去したため、文武天皇の息子の聖武天皇が成長するまで中継ぎの天皇を置く必要があった。
  • そのため、最初に文武天皇の母が元明天皇となり、そのあとに文武天皇の妹が元正天皇となった。
  • つまり聖武天皇が成長するまでの中継ぎとして続いて女帝が即位したために、奈良時代に女帝が多くなった。
  • 文武天皇から元正天皇における太政官は天皇と親戚関係になる藤原不比等、そのあとは長屋王がトップとなった。

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