日本史

【五畿七道】道を使って早く中央と地方との命令や報告をおこなった!

律令国家の行政区画を五畿七道といいます。中央が五畿、地方が七道です。七道とは中央から伸びる道のことで、行政区画としての機能がありました。さらに道には等間隔で駅家が整備され馬と宿泊施設がありました。これらで中央と地方との連絡を迅速におこなったのです。
日本史

【律令国家】法律をもとにした天皇のための中央集権国家の仕組み!

律令国家とは刑罰法の「律」と行政法の「令」というふたつの法典による天皇中心の国家のことです。律令国家には中央集権国家と軍事国家という側面がありました。日本においては中央集権国家を早めるため、行政法の「令」の制定が優先されました。
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【藤原京遷都】都城制と条坊制によって、天皇の中央集権化を象徴する都となった!

694年の持統天皇の時代に遷都された藤原京は、日本初の都城制と条坊制をもった都である。都城制と条坊制を持つことにより、官人は職場がある天皇が住む宮に通勤することになり、天皇による中央集権化を象徴する都となった。
日本史

【皇親政治】天武天皇は強大な独裁権を使って、中央集権化をおこなった!

天武天皇は、壬申の乱で勝利したことで強力な独裁権を得ます。そして皇親政治という天武ファミリーのみで、中央集権化策をおこないます。おもな政策には八色の姓の制定と部民制の解体があり、のこりの新都建設や律令の制定は次の持統天皇に引き継がれます。
日本史

【壬申の乱】軍事クーデターであるとともに、唐羅戦争の代理戦争でもあった!

天智天皇が亡くなると、後継者をめぐり弟の大海人皇子と息子の大友皇子との間で壬申の乱が起こったとされている。しかし真実は大友皇子は大王に即位しており、大海人皇子がクーデターであった。さらに壬申の乱は唐と新羅の代理戦争という側面も持っていた。
日本史

【天智天皇】唐や新羅に備えて中央集権国家のほかに軍事国家もめざす!

中大兄皇子は663年の白村江の戦いの大敗した後、これまでの中央集権策に加えて唐の襲来に備えての国防策も同時におこなった。それが水城であり、西日本の朝鮮式山城である。さらに667年には近江大津宮に遷都し、翌年には天智天皇に即位した。
日本史

【白村江の戦い】唐・新羅と戦争したのは、中央集権化による日本の過信であった!

白村江の戦いが起きたのは、唐に滅ぼされた百済の旧臣は復興運動を起こし、日本(倭)に援軍要請しこれに応じたからである。援軍要請に応じたのは、百済が長年の友好国であるのに加えて、中央集権政策がうまくいっており勝利できると過信していたからである。
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【大化の改新】孝徳天皇と石川麻呂によっておこなわれた中央集権政策!

646年から649年の間におこなわれた大化の改新という政治改革は、孝徳天皇と蘇我倉山田石川麻呂によっておこなわれた。そのポイントは大王による中央集権体制を進めることであった。よって地方の有力な地方豪族である国造を解体した。
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【乙巳の変】中央集権化の方針をめぐる大王家と蘇我氏との対立!

隋の滅亡すると、より強大な唐が建国された。東アジアの集権国家では唐に対抗するため中央集権がおこなわれたが、日本では大王家、上宮王家、蘇我氏が分裂していた。蘇我入鹿は大王家と組んで上宮王家を滅亡させるが、入鹿も大王家の中大兄皇子らによって殺害される。
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【第二回遣隋使】推古朝は隋との平等外交を目指したわけではなかった!

607年、小野妹子を使節として第二回遣隋使が送られた。この遣隋使で隋に朝貢はおこなうが、称号などの冊封を受けない姿勢をとった。その理由として朝鮮半島において敵対する新羅よりも有利な立場に立つためであった。
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