はじめに
みなさんは縄文時代(じょうもんじだい)というと、何が頭に浮かびますか?
やはり縄文土器(じょうもんどき)ではないでしょうか。
この縄文土器を使うことで食材を煮ることができるようになって歯の弱い子供や老人も食べられるようになりました。
そのことで日本の人口が急増することになったのです。
そのほかにも旧石器時代に比べて縄文時代には生活にざまざまな変化がありました。
今回は縄文時代の生活について説明していきます。
縄文時代は旧石器時代よりもとても温暖になる
まずは縄文時代がいつから始まるかというと、約16000年前からです。
![学ぶ一般人](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/1680a2574078c44963003db8f9eeb21c.png)
あれ!俺の記憶だと、縄文時代はいまから10000年前から始まったと先生から教えられたよ。
![だるま先生](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/07/0_35_2_0_24_43_3_15_47_29_0_6_p0-300x300.png)
ここにあるいまから16000年前とは九州南部で縄文時代の文化が始まった年代です。この縄文時代の文化が北上して東北地方、つまり日本全国まで広がったのがいまから10000年前ということです。
そして旧石器時代と比べてとても温暖になることから自然環境も変化します。
気温が上昇すると木の実が多い広葉樹が中心になる
地球全体の気温が上昇すると、植生が木の実が少ない針葉樹から広葉樹(こうようじゅ)が中心となります。
広葉樹になることで食べられる木の実を多く採集(さいしゅう)できるようになります。
この木の実の獲得はとても重要です。
なぜならば木の実には人間のエネルギーの源となる炭水化物(たんすいかぶつ)が多く含まれるからです。
旧石器時代は狩りが中心であるため、動物からタンパク質や脂質しか得られませんでした。
現在は炭水化物抜きダイエットが流行していますが、それだけ炭水化物は人間が生きるうえでは重要であるということです。
なお補足ですが、
- 西日本では広葉樹(こうようじゅ)中心
- 東日本では落葉広葉樹(らくようこうようじゅ)が中心
です。
落葉広葉樹には、クリやクルミなど渋みが少ない木の実が成るので、よく食べられるようになります。
つまり縄文時代には、西日本よりも東日本のほうが人口が増えて発展していきます。
気温が上昇すると入江が作られて魚介類が住むようになる
更に気温が上昇すると、地上の雪や氷がとけて海水面が上昇します。
すると海岸に入り江(いりえ)が形成されます。
たとえば岩手県の三陸海岸(さんりくかいがん)はリアス式海岸といいますが、良質の漁場であることが特徴です。
このリアス式海岸は入り江です。
つまり良質の漁場とは、入り江であるわけです。
つまり、縄文時代になって入り江が形成されることで漁労(ぎょろう)ができるようになります。
つまり魚を捕ることで、タンパク質を摂取することができるようになります。
気温が上昇して大型動物がいなくなり中小型動物が中心となる
つぎに狩り、つまり狩猟(しゅりょう)についてですが、気温が上昇することで日本から大型動物がいなくなります。
その理由は、海水面が上昇して大陸から日本が切り離されることで、大型動物が渡ってこれなくなったことがひとつです。
さらに、気温が上昇することで大型動物が絶滅したからからです。
そして大型動物に代わって、シカやイノシシなどの中小型動物が中心となります。
よって狩猟については、シカやイノシシなどの中小型動物を狩るようになります。
豊富な食料を集めるために道具が多様化した
このように気候が温暖化することで、縄文時代にはさまざまな自然食材が採れるようになりました。
では自然食材を獲得するために道具について見ていきます。
中小型動物を狩るために弓矢やワナが使われた
しかしシカやイノシシといった中小型動物を狩るには問題がありました。
それはこれまでの象といった大型動物と比べて、中小型動物はとてもすばやいことです。
これまでのように打製石器を持って中小型動物を追いかけても追いつけるはずがありません。
そこで、中小型動物を狩るために、弓矢(ゆみや)や落とし穴などのワナが使用されました。
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これらをうまく使用することですばやい中小型動物を仕留めていったのです。
このように縄文時代になると狩りで使用する道具も変化していきます。
採集や漁労の道具について
では縄文時代で行われるようになった採集や漁労で使う道具についても見ていきましょう。
まずは磨石(すりいし)と石皿(いしざら)ですが、セットで採集した木の実をすりつぶすために使用されました。
もちろんすりつぶす木の実は柔らかいほうがいいので、土器に入れて煮てから行いました。
(土器についてはのちほど説明します)
さらに魚を捕る漁労のさいには、シカなどの動物の骨で釣り針(つりばり)や銛(もり)などを作りました。
ちなみに動物の骨や角を加工した道具を骨角器(こっかくき)といいます。
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そして釣り針や銛には、毒を仕込んで魚を捕りやすくする工夫もしていたようです。
さらには海に出て漁労をおこなう際には丸太をくりぬいて船にした丸木舟(まるきぶね)を使用しました。
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このように旧石器時代では大型動物の狩猟のみの生活でしたが、縄文時代には狩猟のほかに新たに採集と漁労もできるようになって食生活が多様化しました。
とくに縄文時代に炭水化物が多い木の実を採集できるようになったことは、とくに重要といえます。
このように食生活が多様化することで、人々は家を作って定住生活(ていじゅうせいかつ)を送るようになります。
![当時の人々](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/38c9aa643af5faf2bf4c7816f8b48d8c-300x300.png)
まわりにたくさん食べ物があるから、動物を追いかけなくても生きられるようになったぞ!
人々は竪穴住居を作って生活した
では縄文時代の人々はどのように定住生活をしていたかというと、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)を作って生活しました。
竪穴住居とは直径5m、深さ70cmの穴をほって柱を立てて茅(かや)をかぶせた住居のことです。
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このように人々が竪穴住居に定住生活するようになって変わったことは、さきほどの道具をすべて竪穴住居に保管できるようになったことです。
旧石器時代は移動生活のため、負担を減らすために、あまり道具を持ち歩けませんでした。
とくに土器は重くて壊れやすいので旧石器時代には作ることはできませんでしたが、縄文時代になり定住生活をするようになると、竪穴住居に常備できるようになりました。
しかし縄文時代は竪穴住居という保管庫ができたことで、様々な道具も保管できるようになったのです。
そして縄文時代の人々は20〜30人ほどの集落(しゅうらく)を作って集団生活をするようになります。
なかには100人を超える大集落も存在しており、青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)がとくに有名です。
土器の使用
先ほども説明したとおり、縄文時代になると土器を使用するようになります。
縄文時代の土器には、縄文土器(じょうもんどき)に代表される縄の文様(もんよう)があるものや、火焔土器(かえんどき)といった複雑の文様のあるものもあります。
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土器は食材の保存にも使われましたが、おもに食材の煮炊き用として使用されました。
とくに食材を煮炊きできることは食生活において画期的なことでした。
なぜならば食材を煮炊きできることで、
- 食材を消毒できる。
- 食材が柔らかくなる。
- 食材のあく抜きができる。
という効果がありました。
まず食材が安全になり柔らかくなったことで、食べられる物が増え、食生活が向上しました。
さらに食材、特に木の実のあく抜きができることも重要です
炭水化物を多く含む木の実は縄文時代の食材の中で特に重要であり、食べやすくなることはとくに重要でした。
磨製石器との併用
縄文時代には、これまでの石を割って作った打製石器(だせいせっき)に加えて、石をみがいて作った磨製石器(ませいせっき)も使用されるようになります。
磨製石器には、磨製石斧(ませいいしおの)、木の実をすりつぶすのに使った石皿と磨石(いしざらとすりいし)、漁労の網のおもりとして使った石錘(せきすい)があります。
![](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/d160c91ccc5b2a426ddb33ccc225dcfa-800x533.png)
その一方で、矢の先に付けた石鏃(せきぞく)や、動物の皮をなめすのに使った石匙(せきひ)は打製石器です。
なぜならばこれらは先が鋭ければ使えるからです。
つまり磨く手間と時間がかかる磨製石器よりも、割って作れる打製石器でもよければ。楽ですよね。
その一方で磨石と石皿は手に持つので、先が鋭いとケガをしてしまうから、みがいてツルツルにして使ったのです。
つまり縄文時代には、用途に応じて打製石器と磨製石器を併用して使用したのです。
さらにこの加曽利貝塚からは、新潟県姫川(ひめかわ)で産出されるヒスイで作られた装飾品も出土しました。
長野県や新潟県で産出される黒曜石やヒスイが千葉県で見つかるということは、そこまでに人々の移動が行われていたということです。
縄文時代の衰退
しかし縄文時代後期ころになると採集生活を送っていた縄文文化がしだいに衰退していくことになります。
縄文時代前期は現在よりも気温が高い
実をいうと、縄文時代は温暖であると書きましたが、縄文時代前期と縄文時代後期では平均気温が違います。
縄文時代前期は現在よりも平均気温が2〜3度ほど高かったようです。
その証拠として、関東地方から見つかっている縄文時代前期の貝塚、つまり貝殻のゴミ捨て場ですが、現在の海岸線より内陸で見つかっています。
つまり、当時は温暖化により海面が上昇して、より内陸部にまで海岸線があったことがわかるのです。
つまり縄文時代前期の日本は南国のように暖かく、自然食材も豊富であったわけです。
寒冷化により縄文時代は衰退していく
しかし縄文時代後期つまり今から4500年くらい前になると、南国のように温暖であった現在の日本の平均気温くらいまで下がってきます。
![](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/1e0110ac43eca2174a8ef98d17a89630-800x533.png)
つまり縄文時代後期は寒冷化により、自然食材も少なくなり人々の食生活が不安になります。
![当時の人々](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/38c9aa643af5faf2bf4c7816f8b48d8c-300x300.png)
なんか前と比べて食べ物の収穫が減っている気がする。なぜだろう…
すると自然食材の量も減り、人口も減少することで、大集落の数や規模も小さくなっていきます。
つまり同じ縄文時代の中でも暖かい時期と寒い時期が存在しており、自然食材の量にも変化があるということです。
宗教のはじまり
すると生活の中で宗教的なものに頼る人たちも出てきます。
縄文時代後期の宗教で有名なものに、アニミズムというものがあります。
アニミズムとは、「すべてのものに霊(れい)が宿っている」と考える信仰のことです。
このアニミズムは、日本だけでなく世界じゅうどこにでもある信仰です。
アニミズムの考えでは、ゴミの意味も変わります。
例えば、貝塚というゴミ捨て場があるのですが、動物の骨や、こわれた道具が捨てられているのはわかります。
しかし貝塚から人間の骨、つまり人骨も出土する時があるのです。
![学ぶ一般人](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/1680a2574078c44963003db8f9eeb21c.png)
人間の骨もゴミ扱いってひどすぎませんか。
![だるま先生](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/07/0_35_2_0_24_43_3_15_47_29_0_6_p0-300x300.png)
アニミズムの考えではゴミの感覚が現在とは違うんだ。
つまりアニミズムの考えでは、現在ではゴミでしかないものにも、霊が宿っていると考えるのです。
つまりアニミズムではゴミも人骨も平等であると考えるのです。
土偶を壊すことで自分への災いを避けた
さらにアニミズムという考えのもと、集落において宗教儀式がおこなわれるようになります。
宗教儀式で使われた代表的なものに土偶(どぐう)という土人形があります。
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土偶は胸とお腹が強調された妊婦(にんぷ)をかたどっているものが多いのが特徴で、子孫繁栄を願って作られたようです。
さらに発見される土偶のほとんどは身体の一部が壊れていることも特徴です。
この理由として、土偶を壊して災いを与えることで、自分たち人間に災いが起こらないと考えたからだといわれています。
縄文時代の風習
さらに縄文時代の風習です。
縄文時代の人骨には、一部の歯を抜く抜歯(ばっし)や、一部の歯をさすまた状に削る叉状研歯(さじょうけんし)が行われたようです。
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理由についてはよくわかっていませんが、一説には成人通過の儀式として歯を抜く痛みに耐えたともいわれています。
埋葬施設の整備
縄文時代後期になると、土の中に死者を葬る墓(はか)の概念がでてきます。
しかも自分の家族だけでなく、集落の関係者も祭るようになっていきます。
旧石器時代でも、洞穴などに死者を安置するはかのようなものはありましたが、死者をともらう概念はなかったようです。
なお東日本では、墓の上に墓石(ぼせき)が置かれるようになり、それが輪っかにつながった環状列石(かんじょうれっせき)が見つかっています。
環状列石は集団墓地であるとともに、宗教儀式をおこなう場所としても利用されたようです。
環状列石でも、秋田県鹿角市にある大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、直径が外側45mもある巨大な環状列石として有名で、世界遺産にも登録されています。
暖かいので、広い地域で交易が行われた
しかしながら縄文時代後期でも旧石器時代よりは暖かいので人々のの移動はさかんになります。
さらに少ない食料を少しでも増やすために物々交換、つまり交易(こうえき)がおこなわれるようになります。
たとえば長野県の和田峠(わだとうげ)から産出される黒曜石(こくようせき)は打製石器の材料として多くの需要がありました。
さらに新潟県の姫川(ひめかわ)からは装飾品の材料として使われたヒスイという石も多くの需要がありました。
この和田峠の黒曜石でできた打製石器や姫川のヒスイが、遠く離れた千葉県や青森県の遺跡で多く見つかっているのです。
これだけ縄文時代後期には交易がさかんであったのです。
ちなみに縄文時代の交易品の産地として、
- 黒曜石→和田峠(長野県)、白滝(しらたき・北海道)、阿蘇山(あそさん・熊本県)
- ヒスイ→姫川(新潟県)
- サヌカイト→二上山(にじょうさん・香川県)
が代表的なものです。
ちなみにサヌカイトは打製石器の材料です。
まとめ
- 縄文時代前半になると、地球が暖かくなり自然食材が豊かになったため、それまでの狩猟だけの生活から、狩猟・漁労・採集と多くの方法で獲得できるようになった。
- 獲得方法の多様化により、弓矢や土器など道具も多様化した。
- 食材が豊富なため、人々は竪穴住居を作り定住生活をおくるようになった。
- 縄文時代後期になると、地球が寒冷化しっため自然食材が減少し、人口も減少した。
- 不安になった人々はアニミズムといった自然宗教にたよるようになり、儀式のさいには妊婦をかたどった土偶が使われた。
- 縄文時代後期には環状列石などの宗教施設を作って宗教儀式をおこなうようになった。
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