はじめに
みなさんは戸籍(こせき)って知っていますか?
さまざまな手続きで戸籍謄本(こせきとうほん)とか戸籍抄本(こせきしょうほん)のコピーの提出を求められることがあるかもしれませんが、それが現在の戸籍です。
そこには家族の性別とか名前が書かれていると思います。
でも律令国家における戸籍とはこれとはまったくの別物です。
ではこれから律令国家の戸籍について説明します。
律令国家の戸籍について
ここでは律令国家における戸籍について説明します。
律令国家の戸は現在の戸とは違う
冒頭でもいいましたが、律令国家の戸籍とは現在の戸籍とはまったく違うものです。
まず戸籍の「戸(こ)」の意味が現在とはちがいます。
律令国家における戸を郷戸(ごうご)というのですが、現在では1家族が1戸ですが、律令国家においてはだいたい2〜3家族で1郷戸となります。
つまり郷戸とは、ある規則にもとづいて2〜3つの異なる家族で人為的に組まされたものです。
当然、人為的に作っているものなので、A・B・Cのそれぞれの家族には、親戚でない限りは血のつながりはありません。
そして郷戸の代表を戸主(こしゅ)といい、この郷戸単位で律令国家の戸籍が作られるわけです。
現在の戸主というと、家族のトップである父親とか祖父が成る場合が多いですが、そこが違いところです。
戸籍に縛り付けることで軍隊を維持した
ここで律令国家の郷戸とは、ある規則にもとづいて2〜3家族で人為的に組まされたものであると説明しました。
ではある規則とは何でしょうか?
それはひとつの郷戸のなかに、正丁(せいてい)という21歳〜60歳の健康な成人男性を3~4人入れることです。
ではなぜ正丁を3~4人いれる必要があるかというと、このうちからひとりを兵隊として徴兵するためです。
律令国家では、国ごとの軍隊である軍団(ぐんだん)というものがありましたが、郷戸があるのは、そこに入る兵隊をつねに確保するためです。
さらにこの軍団から一部の兵士が、都城を警備する衛士(えじ、1年間)や、九州を警備する防人(さきもり、3年間)としては派遣されました。
ただしここで誤解してほしくないのは、徴兵されなかったほかの正丁もいずれは徴兵されるということです。
つまり徴兵の日数がすべての正丁に平等になるように、交代で軍団に所属したのです。
つまり郷戸とは、軍団制維持のためだけに人為的に作られ、郷戸単位で戸籍が作成されたのです。
このことから、律令国家は軍事国家であるということがわかります。
さらに国郡里制の里(さと)ですが、「1里=50郷戸」になるように設定されました。
1郷戸からひとり徴兵されることになるので、1里あたり50人徴兵できることがわかるわけです。
国によっていくつの里があるか分かれるので一概にはいえませんが、これである程度の軍団をつくることができるわけです。
郷戸にもとづいて徴税もおこなった
さらに郷戸による戸籍は、徴兵だけでなく徴税にも流用(りゅうよう)されました。
じつは郷戸にはもうひとつの規則があります。
ひとつの郷戸は全員合わせて、20~30人になるように設定されているということです。
これで1里当たりの人口は1000〜1500人くらいいることがわかるわけです。
朝廷はこの郷戸という徴兵の仕組みをそのまま流用して、人間単位に税をかける人頭税(じんとうぜい)として徴税でも郷戸をそのまま採用するようになります。
戸籍の歴史と戸籍の作成について
ここでは戸籍の歴史と、律令国家における戸籍の作成について説明します。
戸籍の歴史について
ここで戸籍の歴史について少し説明します。
戸籍の始まりは670年の天智天皇(てんじてんのう)によって作られた庚午年籍(こうごねんじゃく)です。
その理由は663年に白村江の戦いの敗戦により、唐や新羅が日本へ攻めてくる危険性があり、軍隊を整える必要があったからです。
つまり庚午年籍の作成されたのは、徴兵をおこなうために人民を戸籍に縛り付けておく必要があったからです。
さらに徴兵できる人数を把握するために、全国の人口も把握しておく必要があるためでもあります。
そして戸籍によって全国の人口が把握できているのならば、戸籍の情報から人間単位での徴税、つまり人頭税で取ったほうが効率的だと考えたわけです。
しかし、670年の庚午年籍の作成だけで全国の人口がすべて把握できたわけではありません。
このあと何度も戸籍作成を繰り返すことで、しだいに戸籍に記載される人民が増えていったということです。
戸籍については庚午年籍のあと、690年の持統天皇の時代に庚寅年籍(こういんねんじゃく)という2回目の戸籍が作成されます。
そしてここから6年ごとに戸籍が作成されていくことになります。
つまり696年、702年、708年〜といった具合に戸籍が作成されていくことになります。
戸籍と計帳について
あなたは日本史の授業で、戸籍とともに計帳(けいちょう)という帳簿も作成されたことを教えられたとおもいます。
まず戸籍とは、6年ごとに作成されて人民に生活を保証する際の口分田(くぶんでん)を配る目安としました。
さらに租(そ)という地方に納める税の基準となりました。
なお「人民に支給する田地」については後ほど説明します。
つぎに計帳とは、毎年作成されて庸(よう)や調(ちょう)という中央(朝廷)に納める税の基準とされました。
なんで戸籍は6年に1回しか作成されないのに、計帳は毎年作成されたの?
この理由は律令国家が、中央集権国家であるからです。わかりにくいからわかりやすく説明します。
戸籍と計帳を参考にする税とどこに納めるか注目してください。
まず戸籍は「地方に納める租」の参考とされます。
そして計帳は「中央(朝廷)に納める庸と調」の参考とされます。
つまり計帳が毎年作成されるのは、大事な中央(朝廷)に納める庸と調の量については毎年細かく知る必要があるからです。
律令国家とは中央集権国家であるということです。
(くわしくはこちらの記事をご覧ください)
では話を戻すと、計帳を毎年いちから作成するとなると大変な作業です。
そこで郷戸の戸長に年に1回、手実(しゅじつ)という現在の郷戸のメンバーの情報を記したものを提出させました。
あくまで戸長による自己申告による郷戸の情報なので、正確性は疑われますが、これをもとにして計帳が作成されました。
そして毎年作られる計帳を参考にして、6年に1回の割合で戸籍が作成されたのです。
まとめ
- 律令国家の戸籍は、人為的に作られた郷戸単位で作成された。
- 郷戸は成人男性である正丁が3〜4人入るように組まされ、1郷戸につき1人が徴兵され、国ごとの軍団に所属させられた。
- つまり律令国家の戸籍は軍事目的であり、徴税にもそのまま使用されたため、人頭税となった。
- 戸籍は6年に1回の作成で、口分田の支給や地方の納める租の元になった。
- 計帳は毎年作成で、中央(朝廷)に納める庸・調の元となった。
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