【飛鳥時代】推古天皇が蘇我氏の開発地である飛鳥に政治の中心を移す!

飛鳥時代アイキャッチ 日本史

はじめに

飛鳥時代について

まずは飛鳥時代の概要について説明します。

推古天皇の即位から始まった

飛鳥時代が始まるのは、592年の推古天皇(すいこてんのう)の即位からはじまります。

ちなみに推古天皇は史料や考古学から存在が確認できる日本初の女性天皇です。

そこから奈良の平城京(へいじょうきょう)に遷都する710年までの間が飛鳥時代となります。

細かくいうと6世紀末から8世紀初頭ですが、ざっと7世紀の間が飛鳥時代であると理解していいと思います。

政治の中心が蘇我氏の開発地である飛鳥に移った

ではなぜ推古天皇の即位の年が飛鳥時代のはじまりなのでしょうか?

それは推古天皇が飛鳥(あすか)に政治の中心を移したからです。

飛鳥とは奈良にある地名なのですが、じつは蘇我氏(そがし)が開発した土地であることが重要です。

奈良盆地での都の変化

つまり推古天皇は、蘇我氏の勢力範囲の中に政治の中心を移したわけです。

推古天皇と厩戸皇子は蘇我氏の親戚

ではなぜ推古天皇が蘇我氏の勢力範囲に政治の中心を移したかというと、彼女が蘇我氏の親戚であるからです。

さらに推古天皇というと、一般的に聖徳太子(しょうとくたいし)とよばれる厩戸皇子(うまやとのおうじ)が有名です。

厩戸皇子は推古天皇の摂政(せっしょう)として、推古天皇の政治を補佐した人物といわれていますが、彼も蘇我氏の親戚です。

つまり推古天皇の時代、つまり推古朝(すいこちょう)の最大の特徴は、親蘇我政権(しんそがせいけん)であるであるということです。

親蘇我政権とは、大王の推古天皇、摂政の厩戸皇子、そして大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)が親戚関係、つまり血縁関係であるということです。

日本史学習における系図の重要性

では系図(けいず)で実際の関係を見ていくのですが、日本史の学習において系図はとても重要です。

系図を見ていくうえでのポイントとなるのが、「2人の人間関係」です。

たとえば下の系図をみると推古天皇と厩戸皇子は「伯母(おば)と甥(おい)」の関係であることがわかります。

さらに「どちらが年上なのか」であることも重要です。

蘇我馬子と厩戸皇子であれば、厩戸皇子が蘇我馬子の娘と結婚しているのですから、蘇我馬子のほうが年上です。

たしかに一部の例外はあるかもしれませんが、この感覚で系図をみることが重要です。

系図で年上・年下を意識すれば、その人が活動していた時期がだいたいわかります。

だれかひとりの活躍した時期がわかれば、他の人の活躍した時期もわかります。

たとえば欽明天皇は仏教伝来(538年・552年)のときの大王なので、6世紀前半から中ごろに活躍したとわかります。

すると娘である推古天皇はとても長生きしたという例外はありますが、だいたい6世紀中ごろから7世紀前半に活躍したとわかるわけです。

よく学校の授業で「天皇の順番は大事だから頭にたたきこめ」と教えられました。

しかし同時に系図を何度も見て天皇同士の関係性を理解することも、日本史を理解するうえで重要といえます。

推古朝における蘇我馬子の存在感の大きさ

すみません。本題から少し脱線しました。

ではさきほどの視点で、ふたたび系図を見てみましょう。

推古天皇と厩戸皇子の関係は、推古天皇の弟である用明天皇(ようめいてんのう)の息子なので「伯母(おば)と甥」の関係で、推古天皇のほうが年上です。

蘇我馬子と厩戸皇子の関係は、蘇我馬子の娘が厩戸皇子の妻(つま)なので、「舅(しゅうと)と義理の息子」という関係で、蘇我馬子のほうが年上です。

蘇我馬子と推古天皇の関係は、推古天皇の母の堅塩姫(きたしひめ)の弟が蘇我馬子であるので、「叔父(おじ)と姪(めい)」の関係で、蘇我馬子のほうが年上です。

年齢順にまとめると、「蘇我馬子>推古天皇>厩戸皇子」の順であり、蘇我馬子が最年長者となります。

つまり推古朝では蘇我馬子の影響力が相当強いわけです。

だからこそ蘇我氏の勢力範囲である飛鳥に政治の中心が移ることも理解できるわけです。

蘇我氏の台頭

学ぶ一般人
学ぶ一般人

ちょっと待って!いきなり蘇我馬子の影響力が強いと言っても、なぜどうやって影響力が強くなったの?

だるま先生
だるま先生

そうですね。ではなぜ蘇我馬子の影響力がつよくなったかを説明しますね。

蘇我氏と渡来人との関係

蘇我氏がヤマト政権で台頭してきたのは、古墳時代後期にあたる6世紀になります。

蘇我氏は昔は渡来系の豪族ではないかといわれていましたが、近年では奈良県の曽我(そが)出身の豪族であるといわれています。

詳しい理由は不明ですが、蘇我氏が台頭した要因のひとつに、朝鮮半島からやってきた渡来人(とらいじん)たちと深く結びついたことがあります。

つまり蘇我氏の部下には渡来人が非常に多いということです。

渡来人には文字(漢字)を読み書きできる人がたくさんいるので、蘇我氏はヤマト政権において重要部署である外交と財政を担当することになります。

外交については、外交文書を書く際に文字が必要ですし、財政についても金勘定する時に、文字つまり数字が書けなくてはならないからです。

さらに蘇我氏の部下には渡来人が多いことから、蘇我氏は仏教を受け入れる崇仏(すうぶつ)の方向性で行動することになります。

なぜならば渡来人は朝鮮半島において、すでに仏教を受け入れているからです。

蘇我稲目による大王との姻戚関係

そして蘇我氏が台頭したもう一つの理由として、大王との婚姻政策があります。

下の系図をみると、欽明天皇の妻が3人系図にあるのですが、宣化天皇の娘である石姫を除く、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねぎみ)は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘になります。

つまり蘇我稲目の娘2人が欽明天皇に嫁いでいるということです。

さらに堅塩媛とのあいだに推古天皇と用明天皇が、小姉君とのあいだに崇峻天皇(すしゅんてんのう)が生まれています。

つまり蘇我氏の娘が生んだ欽明天皇の子供が相次いで大王になっているということです。

このように蘇我氏は、大王の母の一族という外戚関係(がいせきかんけい)を利用して権力を強めていったわけです。

外戚関係というと平安時代の藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)とか平清盛の平家(へいけ)が有名ですが、そのはじまりは蘇我氏であるわけです。

蘇我氏が欽明天皇との婚姻を行った理由

ではなぜ蘇我氏は、欽明天皇に娘2人を嫁がせたのでしょうか?

それは大王の権力が強いからです。

とくに古墳時代中期から後期にあたる5世紀から6世紀にかけて大王の権力が強くなりました。

(詳しくはこちらの記事をご覧ください)

ここで権力が強くなった大王の血縁関係者になればヤマト政権において台頭できると蘇我氏は考えたわけです。

あなたのこれまでの認識では、「蘇我氏は横暴で大王よりも権力を持っていたんだ」とあるかもしれませんが、これは間違いです。

逆に大王の権力が強いからこそ、その親戚であり有力豪族でもある蘇我氏は権力が強いのです。

蘇我氏が横暴であるという考えは「日本書紀(にほんしょき)」に書かれていることからきています。

このなかで蘇我氏、とくに蘇我馬子の孫である蘇我入鹿(そがのいるか)が横暴であり、そのために中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らによって大化の改新(乙巳の変)で殺害されるとあります。

しかし日本書紀に書かれたことを100%そのまま信じるのはいけません。

日本書紀は、天皇家によって書かれた歴史、つまり国史(こくし)ですし、神話も掲載されているのでどこまでが真実なのかわからない部分があります。

それもふくめての日本書紀だと理解する必要があります。

崇仏論争という権力闘争で物部氏に勝利する

このように蘇我氏は渡来人と結びつき、天皇との婚姻を背景にしてヤマト政権で台頭するなかで、ヤマト政権の軍事を担当する有力豪族である物部氏(もののべし)と対立することになります。

蘇我稲目・蘇我馬子親子は、物部尾輿(もののべのおこし)・物部守屋(もののべのもりや)親子と崇仏論争(すうぶつろんそう)という形で対立することになります。

崇仏論争とは、仏教を国の宗教として受け入れるかをめぐる論争です。

国の宗教として受け入れるのに賛成と言ったのが蘇我稲目・蘇我馬子であり、国の宗教と受け入れるのに反対と言ったのが物部尾輿・物部守屋です。

学ぶ一般人
学ぶ一般人

あれ!「国の宗教」ってどういうこと?崇仏論争って仏教を受け入れる蘇我氏と、仏教を受け入れない物部氏との戦いじゃないの?

だるま先生
だるま先生

そう思っているかもしれないけど実は違うんです。

崇仏論争は日本で仏教を受け入れる(崇仏派)か受け入れないか(廃物派)の論争ではありません。

あくまで仏教を国の宗教、別の意味で言えばヤマト政権の正式な宗教にするかしないかの問題なのです。

物部氏としては、仏教を国の正式な宗教にするのはやりすぎではないかと思っているだけです。

実際に物部氏の本拠地には、寺院が作られた形跡が残されています。

ではなぜ物部氏は仏教を国の正式をするのを嫌っていたのでしょうか?

それは仏教を国の宗教にしてしまうと、ヤマト政権における仏教を日本全土に広めていく担当は蘇我氏になってしまうからです。

物部氏としては仏教が国の宗教になることで、蘇我氏のヤマト政権内における影響力が大きくなることを嫌っただけです。

つまり崇仏論争とは、ヤマト政権内における蘇我氏と物部氏との間の権力闘争であるといえるのです。

さらに天皇の後継者問題で蘇我氏と物部氏が争うことになります。

厩戸皇子の父である用明天皇が亡くなると、蘇我馬子と物部守屋それぞれが大王候補をたてて争いました。

しかしこの争いは、すでに娘2人を欽明天皇に嫁がせていて、その間に子供も複数いる蘇我氏が圧倒的に有利です。

よって最終的に物部守屋は蘇我馬子に滅ぼされることになります。

このヤマト政権の有力豪族である物部守屋が滅んだことによって、蘇我馬子はヤマト政権内でかなりの権力をもつ豪族になっていきます。

蘇我氏が崇仏論争で勝利したことで、仏教は国の宗教となり、日本国内で受け入れられていくことになります。

こうしてたとえば仏教の影響をうけた厩戸皇子が法隆寺(ほうりゅうじ)を建てるなどといった、仏教中心の飛鳥文化(あすかぶんか)が発展します。

このように、蘇我氏、つまり蘇我馬子がヤマト政権でかなりの権力を持っていることからこそ、政治の中心が蘇我氏の開発地である飛鳥に移ったわけです。

まとめ

  • 推古天皇が即位すると、親戚関係である蘇我氏が開発した飛鳥に政治の中心を移したことで飛鳥時代が始まった。
  • 日本史学習では系図を見ることが重要。系図を見るとき時のポイントは、人物同士の人間関係を見ることと、一方の人物の活躍時期からもう一方の人物の活躍時期を推測できることである。
  • 蘇我氏がヤマト政権で台頭した背景には、蘇我氏の部下に渡来人が多いことと、欽明天皇との外戚関係を形成したことにある。

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