はじめに
今回の記事では飛鳥時代初期の政治を主導した推古天皇(すいこてんのう)と厩戸皇子(うまやとのおうじ)と、豪族の代表者である蘇我馬子(そがのうまこ)との関係について説明します。
推古天皇は史料や考古学などから存在が確認できる日本初の女性天皇であるといわれています。
ではなぜこの時代に、女性の天皇が誕生したのでしょうか?
そして推古天皇を天皇を補佐した一般的に聖徳太子といわれる厩戸皇子とは何者かを説明していきます。
崇峻天皇の暗殺について
593年に確認できる日本初の女性の天皇である推古天皇(すいこてんのう)が誕生します。
しかしここでは前の代の崇峻天皇(すしゅんてんのう)について説明します。
なぜならばこれが推古天皇即位のきっかけとなるからです。
崇峻天皇の即位
崇峻天皇が誕生したのは、用明天皇(ようめいてんのう)が亡くなったあとの後継者争いで、蘇我氏と物部氏が対立したことにあります。
蘇我氏と物部氏はその前から仏教をヤマト政権の国教にするかしないかで対立する崇仏論争(すうぶつろんそう)で争っていました。
ちなみに仏教を国教にすべき(崇仏)と考えたのが蘇我氏であり、仏教を国教にすべきでない(廃物)と考えたのが物部氏です。
(崇仏論争についてはこちらをご覧ください)
そして587年の丁未の乱(ていびのらん)で蘇我馬子(そがのうまこ)が物部守屋(もののべのもりや)を討ったことで物部氏が滅びました。
そして蘇我馬子が擁立(ようりつ)した崇峻天皇が即位し、蘇我馬子はヤマト政権における最有力豪族となり、大臣(おおおみ)として豪族たちをまとめる存在となります。
(大臣についてはこちらの氏姓制度をご覧ください)
崇峻天皇は592年に蘇我馬子の部下である東漢駒(やまとのあやのこま)という人物によって暗殺されます。
ちなみに崇峻天皇が暗殺された理由として、あなたは「蘇我氏が横暴で崇峻天皇が自分の言うことに従わないから」と理解てしているかもしれません。
しかしその考えは、まちがっています。
もしもそのような理由で蘇我馬子単独で崇峻天皇を暗殺したとしたら、周辺で大きな問題となります。
なぜならば当時のヤマト政権における大王の権力は、ひとりの豪族の権力よりもとても強いものだからです。
そのことは蘇我氏と大王の関係においても同じことです。
もしも大王が蘇我氏の言うことに従わないからといってそのまま大王を暗殺したのであれば、蘇我氏は大王を超える権力者となってしまいます。
ちなみに日本書紀ではこのような記述になっていますが、これは日本書紀が蘇我氏を悪人側として記述されているからです。
当時の東アジアの国々は隋の侵攻におびえていた
ではなぜ崇峻天皇は暗殺されたのでしょうか?
それは当時、つまり6世紀末の東アジア情勢の変化にあるといわれています。
589年、中国が隋(ずい)という王朝によって統一されます。
基本的に中国は、3世紀からずっと分裂状態でした。
まず3世紀には三国時代(さんごくじだい)で、280年に西晋(せいしん)が統一しますが、すぐに分裂し、五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)、南北朝時代(なんほくちょうじだい)という分裂状態が続きます。
つまり中国は3世紀末以降ずっと分裂していることが国の常識となっていたのですが、300年ほどたって6世紀末に再び隋という1国によって統一されたのです。
しかも1国に統一された巨大な隋が朝鮮半島の高句麗(こうくり)に攻撃を開始します。
このことは高句麗の周辺諸国、つまり新羅・百済、そして日本(倭)にとっては衝撃的なことでした。
なぜならば、高句麗が隋に占領されたら次に隋が攻撃してくるのは、日本(倭)を含めた周辺の国だからです。
この隋の高句麗侵攻に対して、その周辺国は何らかの対応を迫られることになります。
崇峻天皇VSその他の人たち
ここからはある研究者の説となります。
もちろん日本でも何らかの対応をするために、国内すべてが一致団結して改革(かいかく)をする必要がありました。
とくに渡来人を部下に持ち国際情勢にも詳しい蘇我馬子は、いちばん危機感を感じていました。
(大夫についてはこちらの記事をご覧ください)
しかしながら崇峻天皇は国際情勢にうとく、あまり改革をやりたがりませんでした。
それどころか、崇峻天皇は朝鮮半島に遠征軍を派遣して、新羅から占領された加耶を復興させる計画を実行しようとしていたようです。
しかしこれは的外れな考えです。
もしもこの時期に朝鮮半島で戦争を行ったら、隋の介入を招くことは目に見えており、そのまま日本へ攻撃される可能性もあります。
それほど崇峻天皇は国際情勢にうとい人物であり、蘇我馬子と対立関係となります。
一方で、この危機感は中央の有力豪族たちや、王族たちも同じように考えており、蘇我馬子側を支持するようになります。
つまり592年に崇峻天皇はたしかに蘇我馬子の部下によって暗殺されました。
しかし、暗殺しようとした考えは蘇我馬子単独のものではなく、中央豪族や王族たちの総意(そうい)で行われたと考えられます。
次の大王のつなぎとして推古天皇を擁立する
これまでの日本の大王は男性が即位するのが普通であったわけですが、隋が高句麗に攻撃したタイミングで、日本の初の女性の大王が誕生したわけです。
ここには何らかの理由があったはすです。
では推古天皇が即位した経緯について見ていきましょう。
大王になるにはさまざまな条件があった
まずここでわかってほしいことは、大王とは日本における最高権力者であるため、即位するにはさまざまな厳しい条件があるということです。
では大王が即位する厳しい条件とは何かというと、
- 血筋がいいこと。父が大王であるのはもちろんだが、母も王族であることが理想。
- 年齢が30歳を超えていること。
- 健康で政治をおこなう能力があること。
となります。
ではこれら条件に注目しながら、下の系図を見てください。
欽明天皇から即位順にミドリの番号が振ってあります。
ここでなにか気が付きませんか?
欽明天皇のあとの大王って、兄弟だけで継承していない?
その通りです。
この時代の大王の位(くらい)は、親子継承ではなく兄弟継承であることが普通でした。
この理由は年齢にあります。
つまりなくなった大王と同じ年代に人物は、兄弟であるからです。
さきほど大王の年齢は30歳以上という条件がありましたが、この理由は最高権力者である大王にはある程度の人生経験がある分別のある人間がふさわしいからです。
だってもしも分別のない変人が、最高権力者である大王になってしまったら国が滅亡するかもしれないではないですか。
よって30歳以上の分別のある人間が大王になったわけです。
蘇我氏血縁者である厩戸皇子
しかしこのときは敏達天皇をはじめ用明天皇や崇峻天皇も亡くなり、男性の兄弟はすべて亡くなっていました。
でもその下の世代に押坂彦人大兄皇子、竹田皇子、厩戸皇子とか男性の皇子がいるじゃない?それじゃだめなの?
それではだめなのです。
なぜならば、これらの皇子は10代、20代と年齢が若すぎるのです。
さらに押坂彦人大兄皇子(おしさかのひとひとおおえのおうじ)や竹田皇子(たけだのおうじ)は蘇我氏と血縁関係がないので、蘇我馬子としては問題外です。
唯一、厩戸皇子(うまやとのおうじ)だけが、父と母両方が蘇我氏と血縁関係があり、さらに妻も蘇我馬子の娘という蘇我氏血縁者である有力王族でした。
つまり厩戸皇子が分別のある大人に成長するまでの時間がかせげれば、厩戸皇子は大王に即位することができるのです。
厩戸皇子が成長するまでのつなぎとして推古天皇が即位する
では厩戸皇子が即位するまでの大王として誰が就任したかというと、敏達天皇の正妻である王后(おうごう)が推古天皇として即位しました。
でも正妻って女性でしょ?
大王に即位して大丈夫なの?
大丈夫です。
さらに推古天皇は大王の条件にすべて当てはまっていたのです。
まず重要視されたのは、推古天皇の政治経験の豊富さです。
当時の王后、のちに皇后となりますが、大王、のちの天皇の政治を助ける立場であるので、政治経験が豊富であるということです。
さらにいえば、当時の彼女は38歳と年齢条件も満たしており、父親が欽明天皇、母親も王族という条件も満たしています。
もっと加えると母親は蘇我馬子の姉であり、蘇我氏血縁者であるので蘇我馬子とも気が合うでしょう。
これらの理由で敏達天皇の王后が大王となっても支障はないわけです。
つまり推古天皇は厩戸皇子が成長するまでのつなぎの大王となり、厩戸皇子も大王見習いの立場で、推古天皇の補佐役、摂政(せっしょう)として政治に参加したのです。
蘇我馬子としては、当時の厩戸皇子は20歳くらいで推古天皇と約20歳くらい離れているので、推古天皇が亡くなったタイミングが、厩戸皇子が即位する年齢条件にちょうど当てはまると考えていたかもしれません。
ちなみにこのあとの時代でも、男性の大王や天皇候補が成長するまでの中継ぎとしての女性の大王、天皇即位がおこなわれるようになります。
蘇我氏の血縁者で政治をおこなう
こうして大王・推古天皇、大王見習い・厩戸皇子、大臣・蘇我馬子という蘇我氏血縁者だけによる親蘇我政権(しんそがせいけん)が誕生するわけです。
なにか一致団結しているように感じますよね。
だって一致団結しないと困るんです。
なぜならば、一致団結して急いで日本を改革しないと、隋が日本を攻撃するかもしれからです。
急いで何らかの手段で隋に対抗していかなくてはいけないのです。
こうして推古朝の政治改革では、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)が制定されます。
さらに隋への外交政策として複数回にわたって遣隋使(けんずいし)という外交使節が派遣されることになるのです。
ちなみに飛鳥時代とは、隋、のちには唐(とう)という巨大な中国王朝に対抗していくために国内改革を進めていった時代であるといえます。
この国内改革、つまり中央集権体制がすすんだ結果として、天皇を中心とする律令国家(りつりょうこっか)ができていったといえるのです。
まとめ
- 崇峻天皇暗殺は、蘇我馬子一人の考えではなく、中央豪族や王族たちの総意でおこなわれた。
- 中国では、300年ぶりの巨大統一国家である隋が誕生して高句麗攻撃がおこなわれたことで、周囲の国は危機意識をもった。
- 推古天皇は次期大王候補である厩戸皇子が成長するまでのつなぎとして即位した。
- 厩戸皇子は大王見習いとして、推古天皇を補佐する摂政に就任した。
- 蘇我馬子は蘇我氏の親戚である推古天皇や厩戸皇子とともに、大臣という豪族代表として政治に参加した。
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