【天智天皇】唐や新羅に備えて中央集権国家のほかに軍事国家もめざす!

天智天皇アイキャッチ 日本史

はじめに

あなたは中大兄皇子というと、大化の改新で蘇我入鹿を殺害した血なまぐさい人物と思うかもしれません。

しかし663年の白村江の戦いでの唐・新羅による大敗後、日本に逃げ帰ると唐・新羅の襲来にビクビクしながら、国土防衛をおこなったのです。

さらに自分の命令に従うように中央集権策をおこないました。

つまりある意味、天智天皇の時代に日本は中央集権国家や軍事国家としての原型ができたともいえるのです。

では今回は天智天皇がどのような政治をおこなったかを説明していきます。

天智朝の政治の特徴

では天智朝の政治の特徴を説明しますが、その前に、いつ中大兄皇子が天智天皇に即位したかを説明します。

中大兄皇子から天智天皇へ

ここでいう天智天皇(てんじてんのう)とは、前の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のことです。

中大兄皇子は母である斉明天皇の死後、事実上の大王としての仕事を行っています。

このように天皇に即位しないまま、天皇の仕事を行うことを称制(しょうせい)といいます。

では中大兄皇子としての称制が終わって、いつ天智天皇として正式に即位するかというと、667年の近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷都する翌年の668年のことです。

つまり668年より前の政治は、中大兄皇子による称制の政治、668年よりあとの政治は天智天皇による天智朝の政治となるわけです。

しかし都合上、この記事では称制段階の政策も天智朝の政治に加えて説明していきます。

さらに中大兄皇子も一部を除いて天智天皇と表記させていただきます。

ご了承ください。

天智朝の政治は中央集権政策に国土防衛策が加わる

では天智朝の政治の特徴ですが、これまでの中央集権化策に国土防衛策も加わるということです。

なぜならば、朝鮮半島における663年の白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で大敗したことによって、唐や新羅が日本に攻めてくる危険が発生したからです。

(白村江の戦いについてはこちらの記事をご覧ください)

つまりこれまでのような大王への中央集権化策だけでは、唐や新羅といった外敵(がいてき)と戦えないので、軍事国家としての要素も必要になっていったということです。

外敵に備えてガチガチに防衛した

まずは天智天皇の国土防衛策について見ていきましょう。

具体的な国土防衛策として、

  • 防人(さきもり)を防衛施設に配置した。
  • 九州各地に(とぶひ)を設置した。
  • 大宰府北側に水城(みずき)を設置する。
  • 西日本を中心に朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)を設置する。

をおこないます。

まず防人(さきもり)とは、九州北部を防衛するための軍隊のことです。

そして(とぶひ)とは、煙を上げることで連絡するための施設のことで、ある程度の間隔でせっちされました。

煙には燃やすものによって、ある程度の色を付けることができます。

例えば「赤の煙ならば敵襲」とするならば、敵がやってきたら次々ととなりの烽に赤の煙を上げさせることで敵襲を素早く知らせることができるのです。

大宰府を守るために水城を設置した

まず天智天皇は、外敵から攻撃を受けた際の国防の最重要拠点となる大宰府(だざいふ)の防備を固めます。

ちなみに大宰府とは、中大兄皇子によって設置された九州の行政管理や、外国使節の接待、商船の管理など対外関係の仕事をおこなう機関です。

この大宰府の北側に水城(みずき)という石垣や水堀がある防塁(ぼうるい)を設置します。

この北側に設置されたことがポイントです。

なぜならば、外敵は北側の海から上陸して攻めてくるからです。

外敵の進軍経路に朝鮮式山城を造る

唐・新羅軍の進軍が予想される経路には、朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)という防衛施設が作られました。

この建築には、日本へ亡命してきた百済の人々の協力もありました。

ちなみに大宰府を守備するために、大野城(おおのじょう)や基穎城(きいじょう)という朝鮮式山城が作られました。

ほかにも西日本にも多くの朝鮮式山城が作られました。

ここで上の図の朝鮮式山城を見てある特徴があるのに気が付きませんか?

学ぶ一般人
学ぶ一般人

敵が真っ先に攻めてくる九州地方に朝鮮式山城があるのはわかるけど、長門城・屋島城・高安城と九州から離れたところにも城があるね。

だるま先生
だるま先生

よく気が付きましたね。

朝鮮式山城は九州の他にも瀬戸内海沿岸部に設置されていることがわかります。

その理由は、防衛拠点である朝鮮式山城は唐や新羅の進軍が予想される経路に設置されたからです。

国土防衛においては、つねに最悪の事態を考えます。

例えば、もし外敵が九州全体を攻略した場合、飛鳥までの進撃ルートとして船で瀬戸内海を通ることが予想されますよね。

そのため瀬戸内海沿岸の拠点として、長門城(ながとじょう)や屋島城(やしまじょう)が作られたわけです。

そして外敵が瀬戸内海も突破して難波津に上陸した場合でも、高安城(たかやすじょう)で足止めすることができます。

近江大津宮への遷都も国土防衛策

ちなみに最初の方で667年に飛鳥から近江大津宮に遷都したと説明しましたが、この近江大津宮への遷都も国土防衛策のひとつです。

国土防衛においては、つねに最悪の事態を考えます。

もし外敵が高安城を突破すると都の飛鳥は目の前です。

しかし飛鳥は奈良盆地の中にあるため、周囲を山で囲まれ、外敵から天智天皇は逃げにくくなります。

これに比べて琵琶湖沿岸の近江大津宮であれば、飛鳥よりも遠い場所にあるだけでなく、外敵が目の前まで攻めてきても、琵琶湖を船で渡って北陸地方などに逃げることができます。

そして天智天皇は唐・新羅軍と戦うための軍隊を北陸地方などで立て直すこともできるわけです。

つまり近江大津宮への遷都も国土防衛策のひとつといえるわけです。

このように天智天皇は、唐・新羅軍という外敵が日本に攻めてきたときのあらゆる最悪の事態を想定して国土防衛策をおこなっていたのです。

中央集権策を進めることで外敵に備えた

次に天智天皇の中央集権策について説明します。

甲子の宣を出して豪族を管理する

天智天皇は中大兄皇子の称制時代である664年に、甲子の宣(かっしのせん)という内政改革を行いました。

ちなみに664年の干支が「甲子(かっし)」なので、甲子の宣です。

その内容は、

  • 冠位十九階から冠位二十六階へ拡大する。
  • 氏上(うじのかみ)を中大兄皇子が定める。
  • 豪族領有民を中大兄皇子が認定する。

ということです。

まず冠位二十六階に拡大したことは、官僚を増やすことで、中央集権化を進めるとともに、さきほどの国家防衛策をできるだけ早く実行させる目的がありました。

次の氏上についてですが、古墳時代の氏姓制度(しせいせいど)おける氏(うじ)のトップとなる人物のことです。

(氏姓制度についてはこちらの記事をご覧ください)

これまでは、集団名である氏については大王から与えられていましたが、そのトップである氏上をだれにするかは、氏のメンバーだけで決めていました。

しかし、氏上、つまり豪族のトップを中大兄皇子が決められる権限をもったことで、中大兄皇子の豪族への権力が高まるわけです。

次の豪族領有民とは、部曲(かきべ)のことで、古墳時代に持っている姓(かばね)に応じて大王から与えられました。

そしてそのあとは豪族ごとに代々、その部曲を所有していたわけです。

(部曲についてはこちらの記事をご覧ください)

つまり中大兄皇子は、豪族を再編成しようとしたわけです。

なぜならば、外敵が攻めてきた時に、豪族が中大兄皇子のいうことを聞かないと大変だからです。

しかし、中大兄皇子が豪族の部曲を認定する権利を持ったということは、裏を返すと認定されない部曲も同時にでてくるということです。

つまり甲子の宣の二つ目と三つ目により、中大兄皇子は大王による中央集権体制を目指そうとしたのです。

なぜならば外敵が攻めてきた時に、豪族たちが中大兄皇子の命令に従わないと大変だからです。

兵士の確保のために戸籍を作成を行う

ここからは中大兄皇子が天智天皇に即位してからの中央集権策ですが、庚午年籍(こうごねんじゃく)の編纂がおこなわれました。

なお天智天皇の時代に近江令(おうみりょう)という現在の行政法も作られていますが、こちらは律令制度に関する記事で説明します。

よってここでは、庚午年籍についてのみ説明します。

庚午年籍とは、670年に天智天皇が作らせた日本で最初の戸籍(こせき)のことです。

ちなみに670年の干支が「康午(こうご)」だから、庚午年籍です。

戸籍とは土地ごとの住民の情報を記した帳簿のことです。

ではなぜ天智天皇が戸籍を作らせたかというと、徴兵(ちょうへい)をおこなうためです。

徴兵をおこなうためには、日本の人口を把握して、どれくらいの兵隊を確保できるを知っておく必要があります。

さらに徴兵した兵隊や国土防衛施設を維持するには費用がかかるため、どれほどの税収を確保できるかも知る必要もあります。

つまり徴兵と徴税のバランスを考えるには、戸籍が必要であり、庚午年籍の作成は、中央集権策であるとともに国家防衛策のひとつともいえるのです。

さらに他の古代の戸籍が30年たつと廃棄される規定でしたが、庚午年籍は永久保存とされていることも特徴です。

まとめ

  • 中大兄皇子は661年に斉明天皇が亡くなったあとも、即位せずに天皇としての業務をする称制をおこなった。
  • 中大兄皇子が天智天皇に即位したのは近江大津宮に遷都した翌年の668年である。
  • 天智天皇の時代は、中央集権策に加えて国土防衛策も同時におこなった。
  • 国土防衛策として、大宰府の北に水城を作ったり、西日本に朝鮮式山城を作った。
  • 近江大津宮への遷都も国土防衛策のひとつである。
  • 甲子の宣によって豪族を再編成しようとした。
  • 770年に庚午年籍という戸籍を作り日本の人口を知ることで徴兵や徴税のバランスを考えた。

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