はじめに
あなたは天武天皇(てんむてんのう)についてどのようなイメージを持っていますか?
天武天皇とは、壬申の乱の大海人皇子(おおあまのおうじ)のことですが、壬申の乱に勝利したことで強力な独裁権を獲得することになります。
そしてつぎの持統天皇とともに、強力な独裁権を利用して、日本を天皇中心の律令国家(りつりょうこっか)に改革していきます。
ではこれから天武天皇が独裁権を利用してどのように日本を改造していったのかを説明します。
天武天皇の即位と外交姿勢
ここでは天武天皇の即位と外交姿勢について説明します。
天武天皇の即位
672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)は、天武天皇(てんむてんのう)となり、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に戻って政治をおこないます。
飛鳥浄御原宮とは、もともと天武天皇の母親である斉明天皇(さいめいてんのう)が整備した後岡本宮(ごおかもとのみや)の名称を変更したものです。
だから「戻った」と表現したのです。
つまりこれまでの近江大津宮(おうみおおつのみや)は天智天皇(てんじてんのう)・大友皇子(おおとものおうじ)親子の都であるので、もとの都に戻ったと考えられます。
さらに天武天皇は、トップの称号を大王(おおきみ)から天皇(てんのう)に変更したといわれています。
唐の政治を参考にしながら、唐とは距離を置く
つぎに天武天皇の外交姿勢について説明します。
天武天皇は唐の政治を参考にしながら、政治をおこなっていきます。
しかしながら、外交姿勢としては唐と距離を置く姿勢をとっていきます。
つまり天武天皇および次の持統天皇(じとうてんのう)の時代である670年代から690年代は、遣唐使の派遣を停止し、唐との国交関係は断絶します。
えっ!これって矛盾していない?
唐と国交を断絶して、どうやって唐を参考にした政治をおこなうの?
たしかにその通りです。でもその答えを説明する前に、なぜ天武天皇が唐との国交を断絶したかを説明します。
その理由は672年の壬申の乱にあります。
壬申の乱で天武天皇こと大海人皇子が大友皇子に勝利した要因のひとつに、唐と新羅の対立関係をうまく利用したことにありました。
(詳しくはこちらの記事をご覧ください)
つまり、壬申の乱の最中に東アジアでは唐と新羅の戦争、つまり唐羅戦争がおこなれていました。
そのとき、大友皇子は大帝国である唐と友好関係を結ぶべきとし、大海人皇子は対抗上、唐と距離を置き、新羅と友好関係を結ぶべきと主張しました。
じつは多くの日本人は白村江の戦いにおいて唐の軍隊に親族を殺されており、唐に味方する大友皇子に不満があったのです。
その日本人の不満を大海人皇子はうまく取り上げることで、大友皇子に勝利することができたのです。
つまり壬申の乱で大海人皇子、つまり天武天皇が「新羅と友好関係を結ぶ」と公約したことで、唐と距離を置かざるをえなくなったわけです。
これによって天武天皇の外交姿勢は、唐と距離を置いて、新羅と親交を持つことになったわけです。
唐と国交を断絶する理由はわかったけど、天武天皇はどうやって唐の政治を参考にしたかを聞きたいんだけど…
すでに答えは出ているじゃないですか!新羅から唐の政治の知識をもらっていたんです。
ただし当時の唐と新羅は対立関係であったので、新羅が提供する唐の情報は少し古い情報となります。
日本は新羅に朝貢を要求した
だったら日本と新羅との関係は良好だったんだね。
じつは日本と新羅が友好関係であったかは疑問符が付くんだ…
なぜかというと、日本は新羅に対して、朝貢(ちょうこう)をおこなうように要求したからです。
朝貢とは、外国の使者が貢物を持っていくことであり、つまり新羅に対して日本に対して臣従(しんじゅう)するように要求したということです。
日本も中国王朝を見習って、日本独自の冊封体制(さくほうたいせい)を行おうとしていたわけです。
(冊封体制については、こちらの記事をご覧ください)
ではなぜ日本が新羅に強気な姿勢でいられるかというと、日本が唐とはさむ位置関係にあったからです。
つまり新羅としては、唐と対立関係である時に、背後にいる日本とも対立関係になるのは嫌だと思っていました。
もちろん日本としては、新羅のこのような状況を把握していたからこそ、新羅に対して強気の外交姿勢でいられたのです。
一方の新羅としては、対等な立場と考えていた日本に不満に感じながらも、しぶしぶ日本へ朝貢をおこなったのです。
天武天皇の独裁で中央集権化が進んでいった
つぎに天武天皇の政治姿勢を見ていきます。
天武天皇の政治の特徴は、天武ファミリーによって強力な独裁政治がおこなわれたということです。
この背景にあるのは、天武天皇が壬申の乱という軍事クーデターで天皇になったことです。
つまり天武天皇は軍事力だけで政権のトップになっているので、もし彼に逆らったら攻められて殺されるということです。
このあとの歴史でも、軍事力で政権を作った人間は独裁傾向になりますので、参考にしてください。
天武天皇は独裁政治をおこなうにあたって、自分ひとりだけでなく、家族、ファミリーで独裁政治をおこなったわけです。
このように天武天皇ファミリーでおこなった独裁政治を皇親政治(こうしんせいじ)をいいます。
ちなみに皇親とは天皇の親族という意味です。
この皇親政治は、最終的に天武天皇に権力が集まっているので、中央集権化ともいえます。
では皇親政治をになった天武ファミリーについて見ていきます。
皇親政治をおこなった主要人物はおもに、
- 天武天皇
- 鵜野皇女(後の持統天皇)
- 草壁皇子
- 高市皇子
- 大津皇子
の5人となります。
まず天武天皇は天皇なので、皇親政治のトップとなります。
鵜野皇女(うののひめみこ)は、のちの持統天皇(じとうてんのう)となる人物で、天武天皇の皇后(こうごう)です。
皇后とは、天皇の正式な妻であり、天皇の政治にも参加できた重要な立場でした。
さらに鵜野皇女は頭脳明晰な人物で、壬申の乱でも天武天皇の参謀(さんぼう)として参加していたようです。
草壁皇子(くさかべのみこ)は、天武天皇と皇后・鸕野皇女との間の子供で、次の天皇となる皇太子(こうたいし)の立場です。
天武天皇は鵜野皇女のほかにも、さまざまな女性との間にたくさんの子供がいます。
そのなかのひとりが高市皇子(たけちのみこ)で、天武天皇の皇子の最年長者ですが、母が地方豪族出身であり天皇となれる立場ではありません。
しかしながら高市皇子は、壬申の乱における主要人物であり、皇親政治においても重要な人物となります。
その一方で大津皇子(おおつのみこ)ですが、
天武天皇と鵜野皇女の実の姉である大田皇女(おおたのひめみこ)との間の子供です。
大田皇女は早くに亡くなってしまいますが、もしも亡くならなかったら、皇后となっていた人物です。
ちなみに大田皇女・鵜野皇女姉妹の父は天智天皇、母方の祖父は大化の改新で活躍した右大臣・蘇我倉山田石川麻呂です。
つまり大田皇女と鵜野皇女の血統に問題はなく、彼女らの子供である草壁皇子と大津皇子のみが天武天皇の子供のなかで天皇の位を相続できる立場となります。
天武天皇は天皇による中央集権化をめざした
ここでは天武天皇による政治、つまり中央集権化政策について説明します。
独裁政治のほかに、天武天皇の政治の特徴として、国土防衛策よりも中央集権策が重視されるようになったということです。
理由として、外敵となる可能性がある唐と新羅が676年まで戦争しており、戦争終結後も唐と新羅の対立関係が続いていたからです。
つまり外敵が襲来する危険性が減り、本来の中央集権策に集中できるようになったということです。
八色の姓によって皇族・豪族を再編成する
ここから天武朝の政治政策においてもっとも重要なのは八色の姓(やくさのかばね)です。
ちなみに八色の姓とあるように、推古朝において冠位十二階(かんいじゅうにかい)という冠位制度ができましたが、日本古来の氏姓制度(しせいせいど)はなくなっていないので注意してください。
つまり天武天皇は、中央豪族を中心に天皇との親疎(しんそ)により、8段階の姓(かばね)に再編成しました。
これが八色の姓です。
では8段階の姓を具体的に示すと、
- 真人(まひと)
- 朝臣(あそん)
- 宿禰(すくね)
- 忌寸(いみき)
- 道師(みちのし)
- 臣(おみ)
- 連(むらじ)
- 稲置(いなぎ)
で、上から偉い順となります。
このなかでも重要なのが真人と朝臣です。
真人は皇族に与えられた姓で、天皇と血縁関係あるから一番上の姓となります。
これまで皇族は氏姓制度の対象外でしたが、八色の姓により天皇の臣下として姓を与えられるようになったのです。
そして朝臣ですが、氏姓制度の臣・連のなかで、天武朝においても権力がある豪族は、昇格させて2番目に偉い朝臣にしました。
例えば天武朝あたりからしだいに勢力を伸ばしてきた藤原氏(ふじわらし)は朝臣となりました。
その一方で、権力が低い臣・連の豪族は、6番目、7番目の立場に据え置かれたわけです。
天武天皇は天皇との親疎関係、たとえば天皇と血縁関係の有無や、天皇との距離によって8種類の姓として氏姓制度を再編成したわけです。
八色の姓は天皇を中心に日本古来の氏姓制度を再編成していることがポイントであり、中央集権化政策のひとつとなるわけです。
官位を整備し、部民制度を解体する
天武天皇は氏姓制度の改革のみでなく、官位の整備もおこなっていき、官位は最終的に30段階となります。
その特徴として、皇族も含めたすべての役人に官位を与えられたことです。
冠位十二階においては、皇族は官位の範囲外でしたが、最終的には天皇以外の役人すべてに官位があたえられるようになったということです。
さらに天武天皇は、675年、これまでの地方豪族だけでなく、皇族や中央豪族の部曲(べのたみ)も廃止します。
これで日本に残る部民制(べのたみせい)は完全に解体されることになります。
この部民制を完全に解体したことにより、中央集権化が飛躍的に進むことになります。
(部民制と解体による中央集権化の理由はこちらの記事をご覧ください)
天武天皇が亡くなったあとも妻の持統天皇に引き継がれる
天武天皇は、さらなる中央集権策をすすめることになります。
たとえば、
- 新都建設
- 律令制度の制定
- 歴史書の編纂(へんさん)
- 貨幣の鋳造
があります。
しかしこのなかで天武天皇が生きている間に成果があったのは「貨幣の鋳造(ちゅうぞう)」のみで、富本銭(ふほんせん)のことです。
よく教科書などで「天武・持統朝(てんむ・じとうちょう)」と表現されます。
それは686年に天武天皇が亡くなるわけですが、そのあと皇后である鵜野皇女が持統天皇(じとうてんのう)となって天武天皇の政策を引き継いでいくことになるからです。
つまり上にある政策のうち、新都建設と律令制度の制定については、天武天皇の時代にはじまり、持統天皇の時代に完成したものです。
つまり、天武天皇の新都建設は藤原京(ふじわらきょう)となり、律令制度の制定は飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)として持統天皇の時代に実現するわけです。
では残りの歴史書の編纂ですが、天武天皇は皇子や臣下たちに命じて、「帝紀及上古諸事(ていきおよびにじようこしょじ)」つまり天皇家の歴史書をつくらせます。
しかし歴史書の編纂は持統天皇の時代でも完成せず、8世紀前半の奈良時代に古事記(こじき)と日本書紀(にほんしょき)として実現します。
古代史の史料としてとくに重要である日本書紀は、天武天皇の命令による天皇家の歴史書として作成されたのです。
まとめ
- 天武天皇の外交姿勢は、壬申の乱により唐とは距離を置き、新羅との関係を重視するものである。
- しかし日本は、新羅の立場を利用して新羅へ朝貢を要求した。
- 天武天皇は、皇親政治という天武ファミリーによる独裁政治をおこなった。
- 天武天皇は八色の姓や部民制の解体など中央集権策を重視した。
- 天武天皇の一部の政策は、妻の持統天皇に引き継がれた。
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