はじめに
この記事では5世紀の古墳時代中期の東アジア情勢と、ヤマト政権のトップの権力強化について説明していきます。
ところであなたは倭の五王(わのごおう)という言葉を聞いたことがありますか?
中国王朝である宋(そう)に朝貢の使者を送った5人のヤマト政権のトップのことをさします。
そのなかの倭王武(わおうぶ)、つまり雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、ヤマト政権トップの権力を強めて大王(おおきみ)という称号を名乗った人物といわれています。
では古墳時代中期に雄略天皇をはじめとするヤマト政権トップたちは、どのようにして力を高めたかを説明していきます。
5世紀の東アジア情勢について
ここでは古墳時代中期、つまり5世紀の東アジア情勢について説明します。
5世紀の朝鮮半島
はじめに古墳時代中期、つまり5世紀の東アジア情勢から説明します。
まず朝鮮半島情勢ですが、国家間の関係は4世紀の状態から変化はありません。
つまり高句麗(こうくり)の南進政策は4世紀になっても継続中です。
このため日本(倭)は高句麗の南下政策を防ぐために、百済(くだら)や加那(かや)とともに高句麗と戦っている状況です。
5世紀の中国
ではもう一方の中国ですが、こちらは大きく変化します。
それは4世紀の20か国ほどのバラバラな状態から、5世紀になると北朝(ほくちょう)と南朝(なんちょう)という2か国にまでまとまったのです。
この状態を南北朝時代(なんほくちょうじだい)といいます。
なおカッコ書きで北魏(ほくぎ)と宋(そう)がありますが、これらが実際に南朝と北朝にまでまとめた王朝となります。
北朝と南朝の2カ国まで中国がまとまったことにより、中国の力が再び上がってきました。
でもそれでも国家が2つに分かれているんだよね。まだ中国の力は弱いんじゃないの?
しかしもともと中国は20カ国くらいに分かれていたのが、2カ国にまでまとまったんだよ。
それだけ国力は大きくなったはずだよ。
このように中国の国力が大きくなると、周辺国の一部に北朝や南朝に朝貢(ちょうこう)する国が出てきます。
(朝貢についてはこちらの記事を御覧ください)
じつは日本(倭)も南朝に朝貢するのですが、これはのちほど説明します。
古墳時代中期のヤマト政権
ここでは古墳時代中期のヤマト政権について説明します。
不満をおさえこむためにヤマト政権のトップの権力が強化された
まず古墳時代中期のヤマト政権ですが、4世紀にはじまった朝鮮半島への出兵が、5世紀になっても繰り返し継続されているということです。
なぜならば、百済や加那を助けるために高句麗と戦うためです。
(くわしくはこちらの記事をごらんください)
しかし戦争が続くとなると、ヤマト政権に協力する豪族(ごうぞく)たちの間から不満が出てきます。
ちなみに豪族とは、ヤマト政権の臣下となった地方で勢力を持つ元・権力者(首長)のことです。
なぜならば戦争は、浪費であり負担が重いからです。
もしかすると、朝鮮半島への出兵を拒否する豪族が出でくるかもしれません。
このためヤマト政権のトップには、このような豪族の不満をおさえこむだけの大きな権力が必要となります。
このため、古墳時代中期になるとヤマト政権のトップの権力がしだいに大きくなっていきます。
その証拠が、古墳時代中期の前方後円墳の規模がさらに大きくなっていることです。
古墳時代前期における最大の古墳である箸墓古墳は全長約280mですが、古墳時代中期の最大の古墳である大仙古墳(だいせんこふん)になると、全長が約486mも達します。
つまりこれまでの古墳と比べて200mも大きくなったわけです。
朝鮮半島の鉄資源を独占した
ではどうやってヤマト政権のトップは自分の権力を拡大していったのでしょうか?
まず1つ目は、加那から輸入した鉄資源を独占したことです。
この鉄資源のことを鉄鋌(てってい。鉄の延べ板のこと)といいます。
これを鉄製品、つまり鉄の武具や農具に加工するわけです。
ここで重要なのは、鉄の武具は軍事力の増強、鉄の農具は経済力の増強につながる重要ななものだということです。
つまりヤマト政権のトップは、軍事力や経済力の増強につながる鉄製品を独占していたということです。
さらに余った鉄製品は、自分と上下関係や信頼関係のある豪族に貸し与えました。
このことで鉄製品を求める豪族に対して、ヤマト政権のトップの権力を高めることにもつながったのです。
渡来人がもつ先進技術を独占した
では誰が鉄鋌を鉄製品に加工したかというと、朝鮮半島からやってきた渡来人(とらいじん)、さらにいえば渡来人技術者たちです。
ヤマト政権のトップは、鉄製品を加工できるなど渡来人が持っている先進技術を独占したのです。
つまり2つ目は、渡来人が持つ大陸の先進技術を独占したことです。
鉄製品の他にも、大陸との通交が多くなる中で大陸から伝わった先進技術として、須恵器(すえき)や機織り(はたおり)などもあります。
ここで機織りを例とすると、ヤマト政権のトップは、機織りの技術の持つ渡来人だけを集めて集団にして管理しておきました。
これが錦織部(にしごりべ)とよばれる集団です。
ほかにも渡来人による技術ごとの集団の代表的なものに、
- 韓鍛冶部(からかぬちべ)
- 鞍作部(くらつくりべ)
- 陶作部(すえつくりべ)
- 史部(ふひとべ)
などがあります。
韓鍛冶部とは、鉄製品を生産する集団です。
さきほど説明した鉄鋌を鉄製品を加工する渡来人とは彼らのことです。
鞍作部とは、鞍(くら)などの馬具を生産する集団です。
馬具が必要になった背景は、敵対する高句麗には騎馬隊があったからです。
これに比べて日本(倭)では歩兵が中心なので、高句麗に対抗するには騎馬隊が必要だったのです。
さらに馬を育てる馬飼部(うまかいべ)という集団も存在しました。
陶作部とは須恵器(すえき)を作る集団のことです。
須恵器とは大陸から入ってきた土器で、登窯(のぼりがま)という窯(かま)を使って高温で焼いて作ります。
そのため須恵器は、灰色で硬いのが特徴です。
ちなみに弥生土器の系統をひく従来からの作り方の土器を土師器(はじき)といいます。
史部とは、文書の作成をおこなった集団で、文字、つまり漢字の読み書きができる人たちです。
文書の作成とは、たとえば中国の王朝に朝貢するさいに国書や、外交の使者が来た際の返書を書くということです。
さらに高句麗とも戦争と和睦を繰り返すため、ときには停戦の国書を書く場合もありました。
そのさいに外交文書が書ける史部が必要となるわけです。
漢字が伝わった重要性
渡来人がもたらした先進技術でも最も重要なのが、この漢字の技術です。
以前の記事で、原始時代と古代の分かれ目は、日本国内で文字、つまり漢字があるかないかということでした。
(詳しくはこちらの記事をご覧ください)
ということは、渡来人から漢字が伝わった古墳時代中期の5世紀が原始時代と古代の境目になるということです。
これ以前は、中国の記録以外、日本の歴史については考古学による推測で説明するしかありませんでした。
しかし漢字の伝来により、日本国内で文字による記録が残せるようになり、文書によって後世にも日本の歴史が伝えられるようになったのです。
その点で漢字の伝来は重要といえます。
日本に渡ってきた渡来人について
これらの渡来人ですが、さまざまな理由で日本にやってきました。
たとえば、朝鮮半島の戦乱を避けてやってきたきたり、百済や加那の国王の命令をうけてやってきた人もいました。
つまりこれら渡来人たちは、さまざまな大陸の先進技術を日本に伝えたわけです。
ちなみに日本に渡ってきた渡来人で弓月君(ゆづきのきみ)、阿知使主(あちのおみ)、王仁(わに)という名前のある人がいます。
彼らですが、
- 弓月君→秦(はた)氏の祖
- 阿知使主→東漢(やまとのあや)氏の祖
- 王仁→西文(かわちのふみ)氏の祖
といわれています。
あれ、なんで東と書いて「やまと」で、西と書いて「かわち」と読むの?
日本にやってきた渡来人が、奈良県南部にあたる「ヤマト地方」と、大阪府南部の「カワチ地方」に分かれて住んでいたからだよ。
ヤマト地方は畿内地方でみると東側、カワチ地方は畿内でみると西側にあたります。
つまり東漢(やまとのあや)氏は「ヤマト地方」に住む渡来人であり、西文(かわちのふみ)氏は「カワチ地方」に住む渡来人であるということです。
倭の五王の朝貢について
ここではヤマト政権のトップの権力拡大の手段の3つ目の手段について説明します。
倭の五王とは
では3つ目の手段は、中国南朝である宋(そう)に朝貢(ちょうこう)したことです。
つまり3つ目は、中国王朝の権力を利用してヤマト政権のトップの権力を高めたことです。
弥生時代でも卑弥呼をはじめとする日本(倭)の権力者(首長)たちが中国王朝の権力を国内統治に利用しましたが、ヤマト政権のトップも同じことをおこなったのです。
(詳しくはこちらの記事をご覧ください)
宋の「宋書倭国伝(そうじょわこくでん)」という歴史書によると、5世紀に倭の五王(わのごおう)が宋に朝貢して冊封(さくほう)を受けたことが書かれています。
ここに出てくる倭の五王とは、
- 讃(さん)
- 珍(ちん)
- 済(せい)
- 興(こう)
- 武(ぶ)
という日本(倭)の5人の王、つまりヤマト政権のトップたちのことです。
ちなみに宋書倭国伝にある五の倭王の血縁関係は次の通りです。
このなかで倭王武については、日本書紀にある雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)なのではないかといわれています。
倭王武の上表文について
この宋書倭国伝に朝貢した倭の五王の記述でいちばん有名なものに、倭王武の上表文(わおうぶのじょうひょうぶん)といわれるものがあります。
この倭王武の上表文のなかに「順帝の昇明二年」という年号が出てきますが、西暦で478年となり、5世紀、つまり古墳時代中期の出来事であることがわかります。
つまり478年に倭王武は宋の皇帝に手紙を出したということです。
宋書倭国伝によると、倭王武が宋へ朝貢した結果として、「安東大将軍倭王(あんとうだいしょうぐんわおう)」という称号を冊封されたことが確認できます。
倭の五王が宋へ朝貢する意味とは
このように朝貢をおこなった倭の五王たちは、宋の皇帝から冊封されるわけですが、倭の五王だけが称号をもらったわけではありません。
倭の五王は、自分だけでなく倭の五王に従っている豪族にも称号がもらえるように、宋の皇帝に働きかけています。
ただし、倭の五王たちがもらう称号が一番高い位で、従属する豪族の称号はそれより下の位となるように働きかけました。
こうしてヤマト政権のトップである倭の五王と、従属する豪族の上下関係が明確にすることで、ヤマト政権のトップの権力を高めたわけです。
これがヤマト政権のトップが権力を高めた3つ目の手段です。
さらに倭の五王の朝貢にはもうひとつ理由があります。
それは朝鮮半島情勢を有利にするために冊封を受けたということです。
つまり朝鮮半島の高句麗への外交軍事上の立場を有利にするためです。
とくに478年の倭王武の上表文を送るきっかけとなった背景はとくにこの理由です。
この当時の百済や加那は非常に劣勢の状態でありました。
高句麗は475年、百済の国王を戦死させ、百済の国土の北半分を奪うほど有利に劣勢へと追い込んでいたのです。
百済や加那側にいるヤマト政権は、この劣勢を巻き返すきっかけとして、倭王武の上表文を宋の皇帝に送って朝貢したわけです。
ヤマト政権トップの権力強化の結果
ここではこれらのヤマト政権トップの権力強化による結果について説明します。
大王中心の独裁体制
このような3つの手段を使ってヤマト政権トップは日本国内における権力を拡大しました。
その結果、ヤマト政権のトップの性格が大きく変化することになります。
古墳時代前期のヤマト政権は緩やかな政治連合、つまりトップの権力が比較的弱い状態でした。
しかし古墳時代中期になると、ヤマト政権のトップは、大王(おおきみ)という強力な指導者となり、周囲の豪族たちを従属させる独裁体制へと変化しました。
ワカタケル大王について
このようなヤマト政権のトップの権力を高めて、はじめて大王と名乗ったとされる人物がいます。
それが、さきほどの倭王武であり、雄略天皇です。
彼の本当の名前は、「ワカタケル」といいます。
つまりワカタケル大王です。
この人物が実在していた証拠として、埼玉県行田市の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土した鉄剣(てっけん)があります。
この鉄剣には120字くらいの文字が刻まれており、そのなかに「獲加多支齒」という文字があり、「ワカタケル」と読みます。
まず鉄剣の文言から、この鉄剣は辛亥の年(471年)の7月に作られたものであることがわかります。
さらに稲荷山古墳に埋葬された人物は、地元の有力豪族で、ワカタケル大王を補佐した人物であるようです。
つまりこの稲荷山古墳の鉄剣により、ワカタケル大王という人物が存在していたことがわかるわけです。
このように古墳時代中期に漢字が伝来したことでさまざまな情報を記録として残せるようになったのです。
さらにいえば、埼玉県の稲荷山古墳の存在から、5世紀後半にはヤマト政権の大王の権力が関東地方にまでおよんでいたこともわかります。
ワカタケル大王の人物像
さらに日本書紀によると、ワカタケル大王こと雄略天皇は「非常に残虐な人物」として記録に残っています。
つまりワカタケル大王は、自分の命令に従わない豪族については、武力でどんどん滅ぼしていったようです。
実際に日本書紀には、瀬戸内海に勢力がある吉備(きび)氏とか、近畿地方に勢力がある葛城(かつらぎ)氏などが滅ぼされたことが書かれています。
ではなぜワカタケル大王が自分の命令に従わない豪族を滅ぼしたかというと、大王と豪族の上下関係をはっきりとさせるためです。
ワカタケル大王は、上下関係をはっきりさせることで、大王の権力を高め、高句麗との戦争を継続させることができたのです。
まとめ
- 古墳時代中期(5世紀)の東アジア情勢は、朝鮮半島では高句麗VS日本(倭)・百済・加那が継続。中国では北朝と南朝の2国に分かれる南北朝時代となる。
- ヤマト政権のトップは朝鮮半島からの鉄資源の独占、渡来人の技術の独占、宋への朝貢によって権力を拡大していく。
- とくに稲荷山古墳出土の鉄剣から、ワカタケル大王=雄略天皇がヤマト政権トップの称号として大王(おおきみ)の称号を使い始め、豪族たちを従属させた。
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