はじめに
あなたは弥生時代における政治連合ってどのようなものかわかりますか?
現在の政治連合とは、同じ政治方針を持つ人たちの集まりですが、弥生時代の政治連合とは、それぞれの権力者をもつある程度の規模をもつクニの集まりことです。
クニとは集落(ムラ)の集まりのことで、トップの支配者(首長)が存在しました。
つまり弥生時代になると支配者とよばれる人が出てきたのです。
さらにいうと弥生時代には争い、つまり戦争も起こるようになりました。
そしてそのきっかけとなったのが、水田稲作の広がりが原因です。
では今回はなぜ水田稲作により、権力者が生まれて争いが起こったかを説明します。
権力者の登場と争いの発生
ここでは水田稲作によって日本にどのような影響を与えたのかを説明します。
かつての日本史では、弥生時代の始まりを弥生土器(やよいどき)としていましたが、現在では水田稲作(すいでんいなさく)の広がりを重要視しています。
それは水田稲作の普及で、日本に権力者が登場し、争いが起こるようになったからです。
集団作業のリーダー
では水田稲作により、なぜ日本に支配者が登場し、争いが起こるようになったかを説明します。
そのまえに水田稲作の特徴について説明します。
水田稲作を理解するポイントとして重要なのは、集団作業であることです。
たとえば集団作業として、近くの川から自分の集落にある水田に水を引くための長い水路(すいろ)を作るとします。
では質問ですが、この水路をあなたひとりで作りますか?
むちゃくちゃ大変だからいやだね。誰かに手伝ったもらうね。
そうですよね。何人かで協力して作りますよね。
さらに水路の管理、つまり水路の定期的なゴミ掃除をするときも何人かの集団で行います。
つまり水田稲作に関する作業は集団作業になるわけで、その際には必ずリーダーというものが必要になっていきます。
集団作業でリーダーが必要になるという部分により、集落の代表が出てくることになります。
つまり集団作業においてリーダーが必要であることから、集落に権力者が登場します。
ちなみに、この権力者を首長(しゅちょう)ということもあります。
他の集落との調整役としてのリーダー
この集団作業以外でも、集落に権力者が出てくるケースがあります。
たとえば下の図のように集落Aの上流にある集落Bも水路を作って水を引き込んだとします。
すると川の水量が減り、その結果、集落Aに引き込む水が少なくなってしまいます。
すると集落Aは集落Bに対して不満が起き、集落同士で争いが起きます。
つまり水田稲作をめぐり、集落同士で争いが発生するようになります。
そこで集落同士の抗争も予想されますが、争いが起きてほしくないと考えた場合、集落同士で話し合いで水路問題を解決することが想像されますよね。
その場合、集落の代表としてのリーダーが必要となります。
つまり集落には、
- 集落作業のリーダー
- 他の集落と調整役としてのリーダー
が必要であり、これらのリーダーが集落の支配者(首長)に発展していくのです。
集団作業のリーダーとは
ではどのような人物がリーダーとなったのでしょうか?
うーん、そういわれるとわからないね。作業を指示する能力が高い人とかかなぁ…
それもあるかもしれないけど、もっと重要な要素があるんだよ。
この問題のポイントは、水田稲作により集落において貧富差ができたことです。
水田稲作といった農作業は、早朝からの農作業を真面目におこなうことが重要ですが、この農作業を真面目に頑張るか頑張らないかで稲の収穫量に大きな差が出てきます。
つまり稲の収穫量が集落内の貧富差となっていき、さらには身分差の固定につながっていったのです。
こうして集落内の身分差が固定されることで、身分の高い人は集落のリーダーとなっていくわけです。
つまり水田稲作により、集落内に権力者(首長)が誕生したことになります。
この権力者が登場したことは、のちの日本史においても重要なできごとです。
なぜなら、歴史上の偉人(いじん)の多くは権力者(首長)であるからです。
実際にこの弥生時代から卑弥呼(ひみこ)という歴史上の偉人がでてきます。
このように歴史上の偉人が支配者であることからも、支配者を生み出した水田稲作は重要といえます。
争いの発生
つぎに水田稲作によって争いが生まれる過程です。
集落単位で水田稲作をおこなうようになると、集落同志でさまざまな要件で争いが起こるようになります。
例えばさきほどの稲を育てる水、つまり用水をめぐる争いがあります。
さらに田んぼを作る場合をとっても、川の近くとか稲が育つ日当たりの良い場所、つまり用地を巡る争いもあるでしょう。
また集落にある高床倉庫に余った稲を蓄えておけることになるのですが、この余剰生産物(よじょうせいさんぶつ)、つまり富(とみ)も争いの対象となります。
たとえば貧しい集落が、となりの豊かな集落を襲って富を奪うということも十分ありえます。
さらに物の奪い合いでいうと、鉄器も争いの要因となります。
なぜ鉄器が争いの要因になるかというと、当時の貴重品であるからです。
つまり弥生時代の日本では鉄器を自給することができないので、朝鮮半島からの輸入でしか鉄器を入手できなかったのです。
(くわしくはこちらの記事をご覧ください)
この鉄器、特に鉄製の武器があるかないかは、支配者の勢力拡大にかかわる重要なことなので、争いの要因となったのです。
この争いの発生も、のちの日本史においても重要なできごとです。
たとえば日本史では、「◯◯の変」とか「△△の乱」という争い、つまり戦争が多くでてきますよね。
このように日本史における争いのはじまりが、水田稲作による富の奪い合いから始まると考えると水田稲作は重要といえます。
権力者の登場と争いの発生の証拠
ここまで水田稲作によって権力者が登場し、争いが発生するようになったと説明しました。
ここでは考古学からこれらの証拠を説明します。
防衛用の集落の発生
まず証拠のひとつとして、環壕集落(かんごうしゅうらく)や、高地性集落(こうちせいしゅうらく)という防衛に特化した集落が発見されています。
まず環濠集落の「濠」とは水堀のことで、集落の周辺を水堀で囲まれている集落のことです。
なぜ集落の周辺を水堀で囲んでいるかというと、敵が攻めてくるからです。
また高地性集落とは、高い場所に築いた集落のことで、本来の集落とは別に設置されています。
つまり高地性集落とは避難場所として設置されたものであり、有利な高い場所から弓矢で攻撃したのです。
高地性集落で有名な遺跡として、香川県の紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)があります。
対人兵器として弓矢を使用した
さらに集落以外の争いの証拠として、矢の先に付ける石鏃(せきぞく)が大きくなっていることがあります。
鏃の大きさはこれまでの約3倍の大きさになったといわれています。
つまり、これまでの弓矢の用途が中小型動物を狩るためであったものが、人間を殺傷するためのものに変わっていったことを示しています。
さらに弥生時代の墓を調べると、人間の骨に鉄の剣の傷があったり、首から上が無くなっているものが発見されています。
このように対人用武器が登場したり、欠損した遺体があることから争いがあった証拠といえます。
首長墓の出現
つぎに権力者が登場した根拠として、墓の変化があります。
つまり弥生時代になると、権力者(首長)の墓と一般の人々の墓に違いができていきます。
まず一般の人々の墓は、土坑墓(どこうぼ)という土を掘って、そのまま埋葬されました。
しかし酸性の土壌である日本では、そのまま埋葬すると傷がついてしまいます。
そこで権力者の墓、つまり首長墓(しゅちょうぼ)では、必ず遺体を棺(ひつぎ)に収められてら埋葬されました。
権力者の棺には、
- 甕(かめ)の棺に入れられる甕棺墓(かめかんぼ)
- 木でできた棺に入れられる木棺墓(もっかんぼ)
- 石板で組み立てた棺にいれる箱式石棺墓(はこしきせきかんぼ)
があります。
さらに九州北部では、棺に収められた上に石を置く支石墓(しせきぼ)というものも発見されています。
さらに棺の中には一般の人々よりも明らかに豪華(ごうか)な副葬品(ふくそうひん)が入っていることが確認されています。
このことからも集落内に特別な権力者(首長)がいたことがわかります。
首長墓は巨大になる
さらに首長墓は、一般の人々の墓よりも巨大であることが特徴です。
たとえば、掘った土を中央に盛り上げる巨大な首長墓である墳丘墓(ふんきゅうぼ)というものがあります。
墳丘墓で代表的なものに、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)があります。
まず四隅突出型墳丘墓とは、四角形の角にさらに盛り土をすることで、角が突き出ている状態の墳丘墓のことです。
この規模は20〜40m四方のかなり巨大なもので、そこにひとりだけが埋葬されていることから、権力者のお墓であることがわかります。
つぎに楯築墳丘墓とは、おもに岡山県でみられるキャンディのような形をしているお墓のことで、全長はさらに大きく80mもありました。
この楯築墳丘墓もたったひとりだけが埋葬されていることから、権力者のお墓であることがわかるわけです。
このように巨大な墳丘墓があることで、集落に権力者(しゅちょう)が存在していた証拠となるわけです。
弥生時代の政治(地域)連合
ここでは弥生時代に発生する政治(地域)連合の発生過程について説明します。
争いに勝利した集落は負けた集落を取り込んでいく
弥生時代には権力者(しゅちょう)が登場し、争いが発生していくなかで、複数の集落同士で争いが発生するケースも出てきます。
そこでたとえば集落Aと集落Bが争って勝ち負けがついたとしましょう。
すると勝った集落A主導で集落Bを取り込んでひとつの集落Aとしてまとまるようになります。
そしてまとまった集落Aは他の集落と争って勝利することでさらにまとまりが大きくなっていくわけです。
つまり弥生時代になると、争いに勝つことでしだいに集団の規模が拡大していったのです。
その証拠として佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)からは、環濠集落の周辺をさらに二重、三重に堀で囲んだ区域が発見されています。
つまり支配した環壕集落をふくめた外側をさらに環濠で囲むことで、自分たちと同じまとまりであることを示したわけです。
このように集団の規模が拡大していく中で、地域ごとに政治連合(または地域連合)のようなまとまりが成立したのではないかといわれています。
地域ごとに首長墓や祭具の種類が同じになる
さらに政治連合(地域連合)の存在を示すものとして、首長墓の形状の統一化があります。
さきほど説明した四隅突出型墳丘墓ですが、とくに山陰地方でよく見られる形状です。
でも普通ならば、こんな奇妙な形状の墳丘墓を作ろうとは思いませんよね。
つまり山陰地方には、首長墓を四隅突出型墳墓にしようと取り決めた政治連合(地域連合)が存在したということです。
つまり、首長墓の形状をあえて同じにすることで、同じ政治連合(地域連合)の一員だという連携を示したわけです。
とくに古墳時代になると、墳丘墓のひとつである前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が奈良県で発生し全国規模にひろがりました。
このことは、奈良県周辺の政治連合であるヤマト政権の規模が全国規模に広がったことを示すものです。
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同じく政治連合(地域連合)の存在を示すものとして、儀式に使う祭具の統一化もあります。
ふつう青銅でできた祭具は、大地のパワーを蓄えるために日常は地中に埋めて保管しています。
よって地中に埋められた状態で、発掘調査の際に見つかる場合もあります。
このようにして発見された祭具を調べると、地域ごとに同じ種類の祭具が使用されていることがわかったのです。
たとえば畿内地方周辺では銅鐸(どうたく)がほとんどです。
つまり畿内地方周辺には、あえて祭具は銅鐸にする政治連合が存在したとわかるわけです。
ほかにも瀬戸内海沿岸では銅剣(どうけん)、九州では銅鉾(どうほこ)や銅戈(どうか)が出土し、それぞれの政治連合が存在したと考えられるわけです。
まとめ
- 水田稲作は集落ごとに集団作業をおこなうため、集落のリーダーが登場し支配者となっていった。
- 水田稲作によって、貧富差が生まれ、それが身分差へと発展することで、集落に支配者(首長)が誕生した。
- さらに集落同士で争いが起こるようになったため、集落を防衛するため環壕集落や高地性集落ができたり、弓矢が狩猟から対人兵器としても使用されるようになった。
- 弥生時代になると、権力者(首長)は特別に棺に入れられたり、墳丘墓といった巨大な墓が作られたりするなど、一般の人々と埋葬形式が分かれるようになった。
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