はじめに
あなたはいつ日本で身分差が生まれたり、戦争が起こるようになったか知っていますか?
じつは弥生時代であり、そのきっかけは水田稲作にありました。
それまでの縄文時代は、自然食材が豊かで争いはほぼありませんでしたが、水田稲作が日本に普及することで身分差や戦争が生まれたのです。
では今回はなぜ水田稲作で身分差や戦争が生まれたかを説明します。
水田稲作により集落に首長が生まれた
現在の日本史の教育において弥生時代のポイントとして、昔は弥生土器(やよいどき)でしたが、現在では水田稲作(すいでんいなさく)の方が重要とされています。
ではなぜ現代においては水田稲作が重要とされているのでしょうか?
それは日本国内で水田稲作が行われることで、集落に権力者が発生したり、戦争が起こるようになったからです。
これらの現象の前提として、水田稲作は集落全体でおこなう集団作業であることがポイントです。
たとえば自分の集落にある水田に水を引く長い水路(すいろ)を作るとき、たったひとりで作れるでしょうか?
無理ですよね。
さらに定期的な水路の管理、つまり水路の掃除をしたりするときも集団で行います。
ほかにも新しい水田を作ったり、収穫物を入れる倉庫を作るときも集団で行うほうが楽です。
ここで問題です。
集団作業を行うときに必要なものはなんでしょうか?
![学ぶ一般人](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/1680a2574078c44963003db8f9eeb21c.png)
集団作業か…やっぱりリーダーかな。作業を指示する人って必要だよね。
![だるま先生](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/0_35_2_0_24_43_3_6_47_29_0_6_p0-300x300.png)
その通り!正解です。集団にはリーダーが必要ですよね。
さらにリーダーの役割として、他の集落との交渉役という役割もありました。
たとえば下の図のように集落Aの上流にある集落Bも水路を作ったとしましょう。
![](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/df8dd07162b59bc0753d7883f2a9bc48-800x534.jpg)
すると集落Aに流れる水は少なくなってしまい、集落Aの水田から収穫できる量も少なくなってしまいます。
すると集落Aの人たち集落Bの人たちに対して不満が起きます。
このような水田に引く水をめぐって集落同士で戦争が発生するようになるのです。
これが水田稲作によって日本国内で戦争がおこるようになったということです。
でも戦争はいやですよね。
ケガするかもしれないし、下手したら死ぬかもしれませんよね。
だから重要となるのが集落Aのリーダーであり、集落Aの代表として集落Bのリーダーと話し合いをおこなって戦争を避ける場合もありました。
このように集落のリーダーは、しだいに集落において権力を持つことで集落のトップ、つまり首長(しゅちょう)となるわけです。
これが水田稲作によって集落内にリーダー、つまり首長が発生するようになったということです。
水田稲作によって権力者や戦争が生まれた
ここでは水田稲作によって権力者や戦争が生まれる具体的な流れについて説明します。
持っている米の量により貧富差や身分差ができた
まず水田稲作による権力者が生まれる過程です。
さきほども説明しましたが、水田稲作は集落全体の集団作業であるので集落ごとにリーダー(首長)が必要でした。
ではどのような人物が集落のリーダー(首長)となったのでしょうか?
![学ぶ一般人](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/1680a2574078c44963003db8f9eeb21c.png)
うーん、そういわれるとわからないね。作業を指示する能力が高い人とかかなぁ…
![だるま先生](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/07/0_35_2_0_24_43_3_15_47_29_0_6_p0-300x300.png)
それもあるかもしれないけど、もっと重要な要素があるんだよ。
この問題の前提として、水田稲作によって集落内部で貧富差ができたことがあります。
たくさんの米を収穫するには、たくさんの農作業を行わなくてはいけませんが、「サボる」「サボらない」かで収穫量に大きな差が出てきます。
それが貧富差となっていき、身分差へと発展していったわけです。
こうして集落内で身分差が固定されることで、身分の高い人は集落の権力者となり、集落のリーダー(首長)となっていくわけです。
つまり水田稲作によって集落内に身分制社会(みぶんせいしゃかい)が成立したわけです。
この権力者の存在は歴史を勉強することにおいてはとても重要です。
なぜならば、このあとの歴史上の偉人(いじん)の多くは権力者であるからです。
実際に弥生時代でも、卑弥呼(ひみこ)という偉人がでてきます。
このように歴史上の偉人が権力者であることからも、権力者を生み出した水田稲作は重要といえます。
水田稲作によるさまざまなモノをめぐって戦争が起こる
つぎに水田稲作によって戦争が生まれる過程です。
集落単位で水田稲作をおこなうようになると、集落でさまざまな施設や財産ができるようになります。
たとえば重要な施設や財産として、
- 水田に水を引くための水路(すいろ)。
- 土の状態や日当たりのよい水田(すいでん)。
- 集落共同の余った米(こめ)。
があります。
これらの施設や財産を奪おうとして、となりの集落などが戦争をしかけてくる場合があるわけです。
さらに財産で言えば、日本に大陸から金属器が伝わるようになると鉄器などの貴重品も財産となります。
(鉄器の貴重性についてはここの記事をごらんください)
とくに権力者である首長にとっては、鉄の武器を持つことは自分の勢力圏の拡大にもつながるので重要でした。
この戦争の存在も歴史を勉強することにおいてはとても重要です。
歴史を勉強するにあたって「◯◯の変」とか「△△の乱」という戦争が多くでてきますよね。
このように戦争のはじまりが水田稲作による施設や財産の奪い合いからはじまると考えると、水田稲作は重要といえます。
戦争の発生により集落に防衛施設ができる
ここまで水田稲作によって戦争が発生するようになったと説明しました。
では戦争が発生するようになった証拠(しょうこ)は何でしょうか?
![学ぶ一般人](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/1680a2574078c44963003db8f9eeb21c.png)
そうだ、そうだ!証拠を示せ!
![だるま先生](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/05/0_4_2_0_24_43_3_118_47_29_0_18_p0-300x300.png)
わかった!わかりました。いまから証拠を示しますから静かに!
では証拠について考古学的観点から説明します。
まず弥生時代のある遺跡の一部からは、環壕集落(かんごうしゅうらく)や、高地性集落(こうちせいしゅうらく)といった特殊な集落が発見されています。
環壕集落と高地性集落とは、両方とも敵の攻撃から守るための集落です。
環濠集落は、集落の周辺に堀(ほり)で囲まれている集落のことです。
高地性集落とは、本来の集落とは別に高い場所に作った集落のことです。
つまり敵が攻めてきた時に避難する集落のことで、高い場所にある高地性集落から弓矢で攻撃しました。
なお、環濠集落で有名な遺跡は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)があります。
また高地性集落で有名な遺跡は、香川県の紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)があります。
対人兵器として弓矢を使用するようになった
さらに弥生時代の遺跡からは、縄文時代のものより大きい石鏃(せきぞく。矢の先につけるもの)が発見されています。
このことは、弓矢の用途が縄文時代までは中小型動物を狩るためであったものが、戦争で人間を殺傷するためのものに変わっていったことを示しています。
さらに弥生時代の墓を調べると、人間の骨に傷があったり、頭の骨が無くなっているものが発見されています。
これも戦争で傷ついたり、首を切断して戦利品として奪われたことを示しています。
集落の権力者のための特別な墓が作られる
さらに権力者が出てくるようになる根拠は、庶民のお墓と権力者のお墓に違いがでてきたことです。
庶民と権力者の間で埋葬形式に変化が起きる
まず弥生時代になると、庶民(しょみん)と、権力者である首長との埋葬形式に違いが起こります。
まず庶民の遺体については、土坑墓(どこうぼ)という土を掘っただけの穴に葬られましたが、酸性の土壌が多い日本では、骨が溶けて遺体に傷がついてしまいます。
そこで権力者の遺体については、特別に棺(ひつぎ)という入れ物に入れられて埋葬されました。
ちなみに権力者の棺については、
- 甕(かめ)の棺に入れられる甕棺墓(かめかんぼ)
- 木でできた棺に入れられる木棺墓(もっかんぼ)
- 石板で組み立てた棺にいれる箱式石棺墓(はこしきせきかんぼ)
があります。
さらに棺の中に庶民のものよりも豪華(ごうか)な副葬品(ふくそうひん)が入っていることが確認されており、集落内で権力者がいたことがわかります。
権力者のための特別な墓が作られる
さらに権力者の墓は、庶民の墓よりも大きいことが特徴です。
権力者の墓として、掘った土を中央に盛り上げて作られた墳丘墓(ふんきゅうぼ)というものがあります。
墳丘墓で代表的なものに、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)があります。
![](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/0095032f9dcb83732a4fe7a78520c379-800x533.png)
四隅突出型墳丘墓とは、方形の墳丘墓の角に盛り土をすることで、角が突き出ている墳丘墓のことで、規模は20〜40m四方の大きさがありました。
この大きさのお墓にたったひとりだけが埋葬されていることから、権力者のお墓であることがわかります。
楯築墳丘墓とは、岡山県でみられるキャンディのような形をしているお墓のことで、長さは80mもありました。
ここでも、巨大なお墓にたったひとりだけが埋葬されていることから、権力者のお墓であることがわかるわけです。
このように墳丘墓は、弥生時代に権力者が存在していた証拠となるわけです。
弥生時代には、集落がまとまって政治連合ができていく
弥生時代になり権力者が出現すると、戦争に勝利した集団が負けた集団を取り込むことで、政治連合(せいじれんごう)が作られていきます。
戦争に勝利することで、負けた村を取り込んでいく
弥生時代には権力者が登場していくなかで、集落、つまり村(ムラ)同士が戦争をおこなうようになります。
例えば集落A(A村)と集落B(B村)があったとして、戦争を行い、A村が勝利したとします。
![](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/ee8341c02275ad48a49fee9c42eb44f1-800x534.jpg)
すると勝ったA村が負けたB村を取り込んで、新しいA村という大きなまとまりが発生します。
このようにして集団の規模が大きくなることで小規模の村(ムラ)は、規模が大きい国(クニ)へと発展し、国同士が争ってより規模が大きい小国へと拡大していきます。
このして弥生時代には戦争に勝つことで、政治連合としての集団の規模が拡大していくのです。
その証拠として環壕集落のある吉野ヶ里遺跡からは、環濠集落の周辺をさらに二重、三重に堀で囲んだ区域が発見されています。
つまり占領した環壕集落をふくめた外側に堀を作り直すことで、同じ政治連合であることを示したわけです。
地域ごとに権力者の墓や祭具が同じになる
たとえば政治連合を示すものとして、権力者の墓の形状があります。
さきほど説明した四隅突出型墳丘墓ですが、山陰地方でよく見られる形状です。
しかしこのような奇妙な形状の墳丘墓を普通なら作りませんよね。
しかし山陰地方で四隅突出型墳丘墓がよく見られるということは、墓の形状をあえて同じにすることで同じ政治連合の一員であることを示したわけです。
また、青銅器の祭具は普段は地中に埋められているので発掘の際に見つかる場合があります。
その祭具も地域的に統一されていることがわかっています。
![](https://daruma-hist.com/wp-content/uploads/2024/06/9ad7a9daa1113eabfc9c757a0508ba2b-800x534.jpg)
たとえば畿内地方周辺では出土される祭具は銅鐸(どうたく)がほとんどです。
つまり畿内地方には銅鐸を祭具とする政治連合が存在することがわかるわけです。
ほかにも瀬戸内海沿岸では銅剣(どうけん)、九州では銅鉾(どうほこ)や銅戈(どうか)が出土しています。
さらに墓の形状については古墳時代になると、畿内地方に前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が発生し全国に広がることで、ヤマト政権が勢力を広げたことにもつながっていきます。
まとめ
- 水田稲作は集落ごとに集団作業をおこなうため、集落のリーダーが登場し支配者となっていった。
- 水田稲作によって長期保存できる籾米という財産を持てるようになったため、持っている籾米の量により貧富差が生まれ、身分差へと発展し、集落に支配者階級ができた。
- さらに集落同士で戦争が起こるようになったため、集落を防衛するため環壕集落や高地性集落ができたり、弓矢を対人兵器として使用されるようになった。
- 権力者のために墳丘墓などの巨大な墓が作られたり、棺に入れられたりするなど一般庶民と墓が分かれるようになった。
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