はじめに
今回の記事では、古墳時代後期の古墳と古墳時代の終わりについて説明します。
5世紀の古墳時代中期の古墳が400mの大規模なものに対して、6世紀の古墳時代後期になるとしだいに古墳の規模が縮小していきます。
つまり6世紀になると、何らかの理由で古墳の必要性が少なくなってきたということです。
今回は古墳時代の終わりについて説明します。
古墳時代後期の古墳の規模が縮小した
ここでは古墳時代後期の古墳の特徴について説明します。
なぜ古墳の規模の縮小したのか
古墳時代後期の古墳を見るうえで最も重要なのは、古墳の規模が縮小していくということです。
つまり古墳時代前期から古墳時代中期にかけて、前方後円墳が全国各地に作られていき、その規模も前期から中期にかけて大きくなっていきました。
とくに古墳時代中期には大仙陵古墳(だいせんりょこふん)のような全長400mを超える前方後円墳も登場しました。
しかし、古墳時代後期になると前方後円墳の規模が縮小していきます。
つまり最大の古墳は、古墳時代中期であるということです。
その理由として、
- ヤマト政権における大王の権力が大きくなり、あえて古墳で権威を示す必要がなくなってきたから。
- 巨大古墳に代わって、モニュメントとして寺院を建てるようになったから。
ことがあります。
それぞれ説明していきます。
大王の権力拡大による古墳の必要性の低下
もともと古墳というのは、モニュメント、つまり権威を示す建物として作られました。
つまり権力者が大きい古墳を作ることで、「俺にはこれだけ大きい古墳を作る経済力や権力があるんだぞ」と見せつけていたわけです。
しかし古墳時代中期から古墳時代後期にかけて、大王の権力が充分に強くなったことで、あえて巨大古墳というモニュメントで権威を示す必要がなくなってきたのです。
仏教が伝わったことで「寺院」がモニュメントになっていく
古墳が縮小化したもうひとつの理由として日本に仏教が伝わったことにあります。
古墳時代後期にあたる6世紀(538年もしくは552年)に百済から仏教が伝わってきます。
仏教が日本に入ってくることで、「寺院」が新たなモニュメントとなっていきます。
じつは寺院は、多くの最新技術が必要とされる建物なのです。
たとえば屋根には瓦(かわら)が乗っていますし、重い瓦を支えるために柱を太くして、さらに土に沈まないように礎石を敷かなくてはいけません。
さらに寺院の中には、仏像や絵画といった最新技術にって作られたものも入っています。
つまり多くの最新技術がつまった寺院が、古墳に代わる大王の権威を示すモニュメントになっていくわけです。
さらにいえば、寺院は中国や朝鮮半島といった東アジア世界共通のモニュメントであり、日本でも東アジア世界と積極的に関係を持っていくうえで必要でした。
古墳時代後期の古墳について
しかし古墳時代後期になって縮小化したとはいえ古墳は作られつづけています。
では何のために古墳が作られ続けたのかを説明していきます。
古墳の目的がモニュメントから本来の「墓」に戻っていく
では古墳によって権威を示す必要がなくなった以上、何のために古墳を作るのでしょうか?
それは古墳の本来の目的である「墓(はか)」として作られるようになっていきます。
これまでも古墳でも権力者の墓としての要素はありましたが、古墳時代後期になると、より墓としての要素が強くなっていきます。
つまり古墳の意味がこれまでのモニュメントから墓へ変化したということです。
追葬を可能にした横穴式石室
では古墳がモニュメントから墓に変化したとわかる一番わかりやすい特徴は、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)という古墳の構造の変化です。
これまでの竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)とは、古墳の頂上から下へ穴を掘る石室です。
これに対して横穴式石室とは、横方向へ穴を掘る石室です。
上の横穴式石室を見ると、閉塞石(へいそくいし)を開けると、羨道(せんどう)という通路があって、進んでいくと行くと玄室(げんしつ)という石棺が納められた部屋があります。
ではあなたに聞きますが、閉塞石という出入り口があって、羨道という通路があって、玄室という部屋があるということは何を意味しますか?
えっ!入口があって通路があるってことは、玄室に何回も出入りするんじゃないかな。
その通り!正解です!よくわかりましたね。
何回も出入りするということは、何回も埋葬できることを意味し、追葬(ついそう)が可能になったということです。
つまりひとつの古墳に、妻など家族も埋葬できるということであり、古墳が「家族の墓」となったことを意味しています。
これまでの竪穴式石室は、ひとりの権力者を権威付けるために、基本ひとりの権力者だけを埋葬する「モニュメント」としての要素が強いものでした。
だからひとりの権力者を埋葬した後は、土で埋めて遺体を掘り返すことは考えられていないのです。
でも考古学者の先生は掘り返すよね。
調子に乗らない!考古学者の先生は未来の歴史研究のために掘り返しているんです。
説明を続けます。
しかしその要素が弱まったことで、父が亡くなって、そのあとに母も亡くなったとしたら、「父と母を一緒に埋葬してあげよう」という発想が出てくるようになります。
よって閉塞石を開けたら中に入れるようになっているのです。
つまり竪穴式石室はひとりの権力者だけを埋葬するモニュメントであるのに対して、横穴式石室は追葬を前提に作られている家族の墓であるわけです。
また古墳時代後期の古墳が家族の墓であることから、副葬品についてもその人物が普段の生活でつかわれていたものとなります。
よって副葬品として、故人が愛用した土器などの生活日用品も加わるようになります。
古墳の内部を飾るようになった
さらに石室の内部を飾ろうと考えるようになります。
なぜならば、古墳の石室は家族の空間であり、何度も追葬のために出入りすることになるからです。
そこで石室に絵を描いて装飾しようとすることになりますが、この装飾されている古墳を装飾古墳(そうしょくこふん)といいます。
この装飾古墳の代表例が、6世紀後半に作られた福岡県にある竹原古墳(たけはらこふん)です。
古墳を作ることのできる階層が下がった
また大規模な古墳を作れない人たちも、小さな円墳(えんぷん)を作るようになります。
その代表的なものが群集墳(ぐんしゅうふん)というものです。
つまり家族単位もしくは集落単位でそれぞれの人物が作った円墳が集まったものです。
群集墳と有名なものとして和歌山県にある岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)があります。
この背景にあるのは、古墳時代後期になると大王の権力が地域の有力農民にまで広がったことです。
つまり大王の許可があれば、有力農民でも古墳を作ることが許されるようになったのです。
このような有力農民たちが作った古墳が群集墳であるといえます。
古墳時代の終末期について
古墳時代の終末期とは7世紀のことをさします。
このころには前方後円墳が作られなくなるので、正式に言えば古墳時代とはいえません。
(このことについてはこちらをご覧ください)
ただし前方後円墳以外の古墳であればこの時代でも作られていますので、7世紀は古墳時代の終末期といえます。
状況でいうと、前方後円墳は7世紀初頭には作られなくなるし、群集墳も7世紀前半には数が少なくなります。
そして最終的に古墳が作られなくなるのは8世紀です。
8世紀になると、律令(りつりょう)という法律が整備されたことで、律令によって人々を支配していくようになります。
この古墳時代の終末期で作られていた古墳のなかで有名なのは、7世紀後半に作られていた八角墳(はっかくふん)です。
八角墳は大王の墓です。
この時代の大王の墓は八角形の古墳(八角墳)が作られていました。
八角墳のなかで有名なものに、野口王墓古墳(のぐちおうのはかこふん)があります。
この野口王墓古墳は、天武天皇(てんむてんのう)および妻の持統天皇(じとうてんのう)のふたりが埋葬された古墳といわれています。
まとめ
- 大王の権力が拡大したことで、古墳によって権威性を示す必要がなくなったことで、古墳の規模が縮小していった。
- 6世紀に仏教が伝わったことで、大王の権威性をしめすモニュメントは古墳から寺院に変わった。
- このことで古墳は「家族の墓」の要素が強くなり、石室も追葬ができる横穴式石室に変わった。
- 有力農民も古墳(群集墳)を作るようになり、副葬品でも土器などの生活日用品が加わった。
- 7世紀後半の古墳時代終末期には、大王の墓として八角墳が作られた。
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