はじめに
今回の記事は、ヤマト政権の政治制度のひとつである氏姓制度(しせいせいど)について説明します。
ところであなたの苗字(みょうじ)は何ですか?
佐藤さんですか?鈴木さんですか?
突然変な質問をしてすみません。
日本に苗字ができたのは、古墳時代後期のヤマト政権による氏姓制度からといわれています。
今回は氏姓制度について説明します。
ヤマト政権の政治制度について
古墳時代のヤマト政権において、政治制度(せいじせいど)が整備されたのは、基本的に古墳時代後期にあたる6世紀ころです。
ヤマト政権の政治制度とは、
- 氏姓制度(しせいせいど)
- 国造制(くにのみやつこせい)
- 部民制(べのたみせい)
の3つになります。
この3つの政治制度が整備され、大王(おおきみ)の権力が高まりました。
このことにより大王の位が特定の血筋(大王家)によって世襲できるようになったのです。
(詳しくはこちらの記事をご覧ください)
この記事では氏姓制度(しせいせいど)についてのみ説明します。
氏姓制度について
では氏姓制度について具体的に説明します。
大王が豪族に氏名(うじな)を与えて上下関係を示した
まず氏姓制度とは、大王に従う豪族を、血族単位の氏(うじ)とよばれる集団に編成して、氏名(うじな)と姓(かばね)を与えて統制する制度です。
(正式にいうと、氏には血族以外の氏が所有する人民、つまり部民も含みますが、わかりやすくするためにご容赦ください)
何を言っているのかわからないよ…
難しい…
だよね。ではひとつひとつわかりやすく説明していきます。
まずは氏と氏名(うじな)について説明します。
でもこれらはわかりにくいので、具体的に有名な中央豪族である蘇我馬子(そがのうまこ)を例にして説明します。
蘇我馬子の場合、「蘇我」という血族集団に所属しています。
よって血族集団としての名前、つまり氏名(うじな)は「蘇我」となります。
つまり氏名(うじな)とは、現在わたしたちが使っている苗字(みょうじ)とほぼ同じようなものと考えてください。
ちなみに氏名(うじな)は現在使われている「氏名(しめい)」と同じ漢字ですのでまちがえないようにしてください。
この氏名(うじな)は、大王と豪族との間に上下関係があることの証拠として、大王が豪族に与えるものです。
つまり蘇我氏の場合、大王が蘇我氏に「蘇我」という氏名(うじな)を与えた地点で、大王と蘇我氏の間に上下関係ができるということです。
つまり氏姓制度とは、上下関係を明確にすることが目的であり、上下関係を明確にすることで大王の権力が強くなるわけです。
氏名(うじな)の付け方
では大王が与える氏名(うじな)の付け方ですが、地名に由来するものと、職業に由来するものの2種類がありました。
たとえばヤマト政権の有力豪族である蘇我馬子の「蘇我」ですが、奈良県高市郡に曽我(そが)の出身だから「蘇我」となりました。
こちらは曽我という地名を由来として、氏名(うじな)が付けられたケースです。
さらにもう一方で、ヤマト政権の軍事担当の有力豪族として、物部守屋(もののべのもりや)という人物がいます。
この「物部」については、武具のことを「物具(もののぐ)」といいますが、これがなまって「物部(もののべ)」となりました。
つまりこちらは軍事という職業を由来として、氏名(うじな)が付けられたケースということです。
大王家の人間は氏名(うじな)を持っていない
このように大王は、自分に従う豪族に氏名(うじな)を与えることで、大王と豪族との上下関係を作りました。
ではこれに関わることですが、大王の家である大王家(おおきみけ)には氏名(うじな)がありません。
つまり与えられる側の豪族には氏名(うじな)があるのに対して、与える側大王家には氏名(うじな)がないということです。
大王家に氏名(うじな)がないという差をつけることで、大王家は特別扱いということです。
このことは現代の天皇家でも同じことで、現在の今上天皇・徳仁(なるひと)ですが、徳仁という名前のみで苗字は存在しません。
そのほかに娘の愛子さまも名前のみで苗字はありません。
姓は豪族のヤマト政権における序列を示す
つぎに姓(かばね)について説明します。
姓は一般的に氏名(うじな)と名前の間に、西欧のミドルネームのように入れられます。
そして姓はヤマト政権における序列(じょれつ)を示しています。
さらにこの姓は氏ごとに世襲されることが特徴です。
さきほどの蘇我馬子と物部守屋を例に説明します。
まず蘇我馬子の場合、蘇我氏は臣(おみ)という姓をもらいます。
そして物部守屋の場合、物部氏は連(むらじ)という姓をもらいます。
姓はヤマト政権における序列を示しますが、臣と連のどちらが偉いかというと、対等の序列です。
つまり、「臣=連」ということです。
では姓をわかりやすくするために、東漢駒(やまとのあやのこま)という人物を出します。
さらに代表的な姓として君(きみ)があるのですが、この序列も臣や連よりも格下となります。
なお教科書で、馬子の命令で崇峻天皇(すしゅんてんのう)を殺害した渡来人として東漢直駒(やまとのあやのあたえこま)がでてきますが、東漢駒に「直」という姓が入った同一人物です。
この東漢氏ですが、直(あたえ)という姓をもらいますが、直の序列は臣や連よりも格下となります。
つまり、「臣・連>君・直」という序列となるわけです。
ちなみに姓はこのほかにもたくさん存在しますが、このように姓の違いから見る人が見ればヤマト政権の序列はすぐにわかるわけです。
ちなみに臣や連はヤマト周辺に住む中央の有力豪族たちに与えられました。
また君や直は地方の有力豪族たちに与えられました。
つまり国造(くにのみやつこ)に任命される地方の有力豪族は君や直の姓が与えられたということです。
この姓も大王が臣下となった豪族に与えました。
姓も大王が与えることによって、大王と豪族との間に上下関係ができ、大王の権力が強くなるわけです。
つまりヤマト政権が氏姓制度を整えることの意味は、大王の権力強化であるということです。
臣・連の姓を持つ人たちは、大夫(まえつきみ)としてヤマト政権の運営に関わった
では臣・連と直・君の姓の格差のちがいについて、ヤマト政権の国政運営から見ていきましょう。
大王はヤマトの有力豪族に政治を相談した
ヤマト政権では大王の権力が強いことが特徴だと説明しました。
しかし大王がヤマト政権の国政運営に関して、ひとりだけで決めていったわけではありません。
大王は、臣や連の姓を持つヤマト周辺に住む有力な中央豪族たちを集めて国政運営に関して相談したのです。
とくに臣を持つ豪族たちの代表を大臣(おおおみ)、連を持つ豪族のトップの豪族を大連(おおむらじ)といいます。
この大臣や大連といわれるひとたちは、ヤマト政権の国政運営には必ず関わっていました。
こうように大王の国政運営の相談に応じる臣・連の姓を持つ豪族を大夫(まえつきみ)といいます。
その一方で、臣・連以外の豪族たちは、ヤマト政権の国政運営の相談に参加することはできませんでした。
これがヤマト政権の運営における臣・連と直・君との格差の違いです。
国政運営の話し合いは大王の自宅で行った
さっき、大王はヤマト周辺に住む有力な中央豪族たちを集めて国政運営の相談をしたとあったけど、どこでおこなったの?
それはね。大王の自宅です。
まずはじめにヤマト政権の偉い人の家について説明します。
まず豪族たちの住居を、宅(やけ)といいました。
そして大王や王族の家も本来は宅(やけ)と呼ばれましたが、豪族より身分が高いので御宅(みやけ)となり、省略して宮(みや)というようになります。
古墳時代には、残念ながら国会議事堂のような建物はありません。
よってヤマト政権の国政運営についての相談や話し合いは、大王の自宅である大王の宮で行われたのです。
このように考えると大王が亡くなって新しい大王が現れた場合、ヤマト政権の運営に関する相談や話し合いは、亡くなった大王の宮でなく、新しい大王の宮で行われることになります。
ちなみにヤマト政権の運営についての相談に参加したのは、臣・連からなる大夫(まえつきみ)だけではありません。
非常時、例えば次の大王継承についての相談については、例外として大王の弟や息子などの王族が参加する場合もありました。
まとめ
- 氏姓制度の整備が大王の権力強化につながった。
- 氏名(うじな)には、地名に由来するものと、職業に由来するものがある。
- 姓(かばね)とは、ヤマト政権内の序列を示している。
- 臣・連の姓は中央の有力豪族に与えられ、君・直の姓は地方の有力豪族に与えられた。
- ヤマト政権の国政運営については、大王がすべて決めるのではなく、臣・連の姓をもつ豪族(大夫)の意見を聞いた。
- 国政運営の話し合いは、大王の宮でおこなわれた。
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