はじめに
あなたは古墳時代と聞いて何を想像しますか?
もちろんこのような「古墳」ですよね。
くわしくいえば、この古墳の形状を前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)といいます。
この前方後円墳が古墳時代におけるスタンダードの形となっていきます。
ではなぜ前方後円墳が古墳時代のスタンダードとなったのでしょうか?
ここでは古墳時代における前方後円墳について説明していきます。
古墳時代と前方後円墳について
ここでは古墳時代と前方後円墳の関係性について説明します。
「古代」の定義について
旧石器時代から弥生時代までは「原始時代」という区分でしたが、古墳時代(こふんじだい)から「古代」という区分に含まれます。
(「原始時代」と「古代」の区別については、こちらの記事をごらんください)
ここで古代についてですが、「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代中期まで」となります。
なお平安時代中期とは藤原摂関政治期(ふじわらせっかんせいじき)までです。
当時の権力者で例えると、京都宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を造った藤原頼通(ふじわらのよりみち)の時代までです。
あれ、白河法皇からはじまる院政期は古代に含まれないの?
そうです。院政期からは中世となります。
理由については院政期に中世の基本となるさまざまな制度が作られたからです。
つまり古代は古墳時代から平安時代中期までとなります。
古墳は弥生時代から作られていた
つぎに古墳時代の「古墳」とは何なのか説明します。
本来の古墳(こふん)とは、土を盛った権力者(首長)の墓のことを意味しています。
古墳の種類には、円形の円墳(えんふん)、正方形の方墳(ほうふん)、鍵穴型の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)など数えきれないくらい形状があります。
では古墳時代の「古墳」も、土を盛った権力者の墓という意味でいいのでしょうか?
残念ですが、それは違います。
古墳時代の「古墳」を土を盛った権力者の墓という意味にすると、弥生時代も古墳時代に含まれることになります。
なぜならば、弥生時代にはすでに、墳丘墓(ふんきゅうぼ)という権力者(首長)の墓がすでに作られていたからです。
この墳丘墓も土を盛った権力者の墓なので、古墳であることになります。
ちなみに墳丘墓には、山陰地方で広がった四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)や、瀬戸内海で広がった楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)があります。
(くわしくはこちらの記事をご覧ください)
前方後円墳について
それなら古墳時代の「古墳」って何なの?
それは前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)という鍵穴の形状の古墳だけを指すんだよ。
はじめのところで鍵穴の古墳が出てきましたが、それが前方後円墳です。
つまり鍵穴の形状をした前方後円墳が作られていた時代だけを古墳時代というのです。
では前方後円墳がいつから作られるようになったかというと、3世紀中ごろからであり、作られなくなるのは7世紀からです。
つまり3世紀中ごろから6世紀までが古墳時代ということになります。
ただし前方後円墳以外の古墳は7世紀の飛鳥時代でも作られています。
その代表的なものが、八角形の古墳である八角墳(かっかくふん)で、天皇のお墓です。
しかし前方後円墳は作られないので、古墳時代には含まれません。
ここであなたが疑問となるのが、なぜ古墳時代がなぜ3世紀中ころから始まって、前方後円墳がなぜ古墳時代の代表的な古墳であるのかですよね。
ではそれぞれの疑問に答えていきます。
箸墓古墳について
まずなぜ古墳時代のはじまりが3世紀中ごろかというと、奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)の存在にあります。
この箸墓古墳が3世紀中ごろに作られた日本最古の前方後円墳なのです。
つまり日本最古の前方後円墳である箸墓古墳が、3世紀中ごろに作られたので、古墳時代がはじまりも3世紀中ごろとされたわけです。
さらに箸墓古墳は纏向遺跡(まきむくいせき)の領域内にあります。
纏向遺跡は、邪馬台国の畿内説において、邪馬台国連合(やまたいこくれんごう)の中心が存在していたと推定される場所です。
よって一説には箸墓古墳は、女王・卑弥呼(ひみこ)の墓なのではないかといわれています。
(くわしくはこちらの記事をごらんください)
前方後円墳が古墳時代の古墳なのはなぜか?
ではなぜ古墳にはいろいろな種類があるのに前方後円墳だけが、古墳時代における「古墳」だといえるのでしょうか?
その理由はふたつあります。
ひとつめは前方後円墳が他の古墳と比べて、ひときわ巨大だからです。
では他の古墳の代表として、いちばん大きいものとして岡山県の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)があります。
この楯築墳丘墓は、ちょうどキャンディのような形状をしており、全長は80mもあります。
これでも十分に大きいですよね。
しかし日本最古の前方後円墳である箸墓古墳は、全長が280mもありました。
箸墓古墳は、なんと楯築墳丘墓の約3.5倍のあるのです。
さらに箸墓古墳は前方後円墳のなかでも小型であり、いちばん大きい大仙古墳(だいせんこふん)になると全長が486mにもなります。
つまり前方後円墳は他の古墳と比べてひときわ巨大であることが特殊といえます。
2つ目の理由は、規格の統一性にあります。
たとえば前方後円墳において、遺体を埋葬するのは台形の部分ではなく、かならず円形の部分です。
さらに遺体を納める石室の作り方、副葬品の種類もまったく同じです。
前方後円墳においてこれらすべてが同じなのです。
これだけでも特殊ですよね。
さらにいうと、前方後円墳の円形と台形の比率もほぼ同じです。
つまりピッタリ2分の1、3分の1、4分の1といった同じ形状の前方後円墳が各地に存在しているのです。
つまり前方後円墳のすべてが、統一された規格であることも特殊といえます。
前方後円墳とヤマト政権について
では前方後円墳だけが巨大であることや、統一された規格であるとは、どのようなことを示しているのでしょうか?
巨大な権力者や政治連合の存在
まず前方後円墳が他と比べて巨大であることは、巨大な権力者(首長)の存在を可能性を示しています。
なぜならば巨大な前方後円墳を作るには、ほかの古墳と比べて段違いの莫大(ばくだい)な費用や労力がかかるからです。
このことは全国の古墳の大きさランキングにおいて、前方後円墳は他の古墳の抜いてトップを独占していることからもわかります。
つぎに前方後円墳の統一された規格は、政治連合(地域連合)を形成しているということを示しています。
弥生時代において、墳丘墓の形状をわざと同じにすることで同じ政治連合(地域連合)の連帯をしめしていました。
(くわしくはこちらの記事をご覧ください)
つまり前方後円墳においてもこれらと同じような政治連合(地域連合)があったのではないかと推測できるわけです。
ヤマト政権とは
たっだら前方後円墳を作る政治連合ってなんなの?
それはよくわかっていないんだけども、記録にあるヤマト政権(やまとせいけん)とよばれるものではなかったかと推定されているよ。
ではヤマト政権とは何かというと、8世紀にできた古事記や日本書紀に出てくる巨大な政治連合(地域連合)のことです。
古事記や日本書紀は8世紀に作られた天皇家の歴史書のことです。
ちなみに日本史において、古事記と日本書紀両方をまとめて記紀(きき)といいます。
しかしこれまでヤマト政権が確実に実在するという根拠がありませんでした。
でも記紀って天皇家の歴史書でしょ。正しいに決まっているじゃん。
でも記紀には多くの神話、つまり神々のお話も入っているんだ。
例えば昔の日本にはたくさんの神様がいて日本を作ったとか、100歳以上まで生きた天皇がゴロゴロいるとかありえないことが書かれています。
現在でも100歳以上は相当な長寿です。
ましてや医療もない当時に100歳以上生きるなんて神様や仙人です。
なぜかというと、あくまで記紀は天皇家の歴史書、つまり天皇家の正当性を広める歴史書だからです。
よって事実かもわからないヤマト政権を日本史の真実として掲載できないわけです。
でも日本史の授業でヤマト政権について習ったよ。なぜ?
それが前方後円墳という考古学的資料の存在です。
つまり前方後円墳を作った政治連合(地域連合)とは、記紀にあるヤマト政権に間違いないだろうとされたわけです。
前方後円墳という考古学的史料により、これまで神話ではないかといわれたヤマト政権が存在したことを証明されたわけです。
これまでの説明から、古墳時代が前方後円墳の時代であるので、「古墳時代はヤマト政権の時代」と言っていいわけです。
なぜ「大和」ではなく「ヤマト」なのか
ここで、あなたはなぜ「大和」と表記しないで「ヤマト」とカタカナ表記したのかと疑問に思いませんでしたか?
確かに教科書によっては「大和政権」と表記しているのもあります。
しかし自分では「ヤマト政権」とカタカナ表記したほうが正しいと思っています。
なぜならば「大和」にすると、奈良県の旧国名である「大和国」と勘違いする場合があるからです。
しかしヤマト政権の「ヤマト」とは、大和国内にあるさらに狭い領域を示しています。
ヤマトは奈良盆地の東南部の三輪山(みわやま)のふもとにある地域です。
つまり「ヤマノフモト」が短縮されて「ヤマト」と呼ばれたわけです。
このヤマト地方、つまり現在の桜井市や天理市にあたる地域ですが、箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が多く見つかっています。
つまりヤマト政権の中心部は、奈良盆地東南部のヤマト地方にあったということです。
ちなみに奈良盆地は古代史において重要な場所といえます。
なぜならば飛鳥(あすか)や、平城京(へいじょうきょう)も奈良盆地にあるからです。
つまり古墳時代から奈良時代までの政治の中心は奈良盆地内にあったということです。
古墳時代の時代区分とポイント
ここでは古墳時代の時代区分と古墳時代を見ていくポイントに付いて説明します。
古墳時代の時代区分
まずは古墳時代の時代区分です。
古墳時代は3世紀中ころから6世紀まで続きますが、大きく分けて、前期・中期・後期に分かれます。
年代に当てはめると、
- 古墳時代前期→3世紀中頃〜4世紀
- 古墳時代中期→5世紀
- 古墳時代後期→6世紀
に分かれます。
さきほど7世紀でも八角墳が作られていることを説明しましたが、この時代を「古墳時代の終末期」とする場合もあります。
ただし7世紀はあくまで飛鳥時代であり、古墳時代ではないので注意してください。
古墳時代のポイント
つぎに古墳時代が知るためのポイントは3つあります。
それは
- 古墳(前方後円墳)の変化
- ヤマト政権の状況
- 東アジア(中国・朝鮮半島)情勢
です。
古墳時代なので、古墳の変化とヤマト政権の状況が重要なのは当然です。
しかし古墳時代では東アジア情勢の変化も重要です。
なぜならばヤマト政権の勢力拡大に必要な鉄器獲得は、朝鮮半島からの輸入でしか行われなかったからです。
さらに日本に技術を伝える渡来人たちも朝鮮半島からやってきました。
よって朝鮮半島や中国といった東アジア情勢も古墳時代に大きく関わることになるのです。
まとめ
- 古墳時代の「古墳」とは、鍵穴状の前方後円墳のことである。
- 前方後円墳が古墳時代の「古墳」であるのは、他の古墳よりも巨大であることや、統一された規格で広がったから。
- 前方後円墳を作った政治連合(地域連合)とは記紀にあるヤマト政権ではないかといわれている。
- ヤマト政権の「ヤマト」とは奈良盆地東南部にあるヤマト地方のことである。
- 古墳時代を知るポイントは、古墳の変化、ヤマト政権の状況、東アジア情勢である。
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