【邪馬台国】卑弥呼はトップの権力が弱いから魏の権力を頼った!

邪馬台国アイキャッチ 日本史

はじめに

あなたは邪馬台国(やまたいこく)と、女王卑弥呼(ひみこ)を知っていますか?

卑弥呼は日本史のマンガで一番最初に出てくる偉人であり、有名な人物ですよね。

しかしあなたは卑弥呼がどのような人物でどのようなことをおこなった人物であるか知っていますか?

たとえば卑弥呼は魏志倭人伝にでてきて、中国と関係を結びましたが、なぜそのような行動をしたのか説明できますか?

今回は本来の卑弥呼と邪馬台国について説明していきます。

邪馬台国と卑弥呼について

ここでは邪馬台国がどのようなもので、卑弥呼戸邪馬台国がどのような関係であるのかを説明します。

邪馬台国とは小国連合

邪馬台国(やまたいこく)の話は、中国の歴史書である魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にでてきます。

魏志倭人伝に邪馬台国が登場する年代は3世紀前半の時代であるので、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が活躍する年代も3世紀前半となります。

ちなみに邪馬台国は考古学的に位置がはっきりしておらず、魏志倭人伝という史料の文字情報だけとなります。

史料を見ていくと、邪馬台国はもともとは男の王様によって支配していましたが、争いが収まりませんでした。

この争いが絶えない状況を、「倭国大乱(わこくたいらん)」といい、2世紀後半も続いていました。

その後、卑弥呼(ひみこ)が女王になると、「倭国大乱」は収まったと書かれています。

ここで注意しておきたいポイントがあります。

それは卑弥呼が「邪馬台国の女王」であるのですが、さらに「邪馬台国連合のトップ」という立場でもあったということです。

学ぶ一般人
学ぶ一般人

邪馬台国連合なんて初めて聞いたよ。
連合ってどういうこと?

だるま先生
だるま先生

では説明していくね。

史料では、「2世紀には大きな騒乱があり中々収まらなかった。そこで諸国が協同(きょうどう)して、邪馬台国の卑弥呼を女王に立てたところようやく騒乱が収まった」とあります。

そして「ここに邪馬台国を中心とする29ばかりの小国の連合が生まれた」となっています。

つまり諸国が協同して、卑弥呼を女王にしたということです。

そしてここにある女王とは「邪馬台国の女王」ではなく「邪馬台国のを中心とした29ばかりの小国の連合の女王」のことです。

当然ながら、29ばかりの小国にはそれぞれ支配者、つまり首長が存在します。

卑弥呼はこの小国のひとつである邪馬台国の首長であると同時に、29ばかりの小国連合のトップでもあるということです。

卑弥呼は女性だから小国連合のトップになった

ではなぜ卑弥呼が小国連合のトップになったかというと、おそらく男性のトップだとうまくいかないから女性の卑弥呼がトップになったのだと考えられます。

しかも卑弥呼はただの女性ではなくて、呪術(じゅじゅつ)の使い手だったようです。

つまり卑弥呼は呪術(じゅじゅつ)を得意とする宗教的資質をもつ指導者という側面も持っていたのです。

史料によると、呪術のことを「鬼道(きどう)」と表現していますが、呪術の内容についてはよくわかっていません。

最近の研究によると、呪術の際に銅の鏡と太陽を使っていたようで、農耕儀礼にかかわる呪術であったようです。

卑弥呼と魏との関係

ここでは卑弥呼と魏の関係について説明します。

卑弥呼の立場は弱かった

しかし邪馬台国連合のトップであるはずの卑弥呼の立場は弱いものでしした。

その理由は、卑弥呼が邪馬台国連合のトップに選ばれた理由が、「女性でないと連合がうまくいかないから」という消極的な理由だからです。

つまり卑弥呼は権力闘争で勝ち上がってトップになったのではなく、首長たちの話し合いで選ばれたリーダーであるからです。

ここで連合を形成する小国の首長たちの意識はこのような感じです。

小国の<br>首長たち
小国の
首長たち

本当は実力的には俺がトップになりたいけど、争いを避けるために仕方なくおまえを女王にしてやったんだ。感謝しろよ!

よって卑弥呼は、ほかの小国の首長たちに強く命令できるほどの絶対的に強い立場ではなかったということです。

なぜ卑弥呼が魏に接近したか

それでも卑弥呼は邪馬台国連合を率いていかなくてはなりません。

では邪馬台国連合での立場が弱い卑弥呼が、首長たちを従わせるにはどうしたらよいでしょうか?

学ぶ一般人
学ぶ一般人

より強い勢力と関係を結んで、権力を大きくすることかな。

だるま先生
だるま先生

正解です。

こうして景初3年(西暦239年)、(ぎ)王朝に朝貢の使節を派遣して冊封を受けることになります。

(朝貢と冊封については、こちらの記事を読んでください)

これが「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号です。

このほかにも卑弥呼は魏から銅鏡100枚をもらっています。

つまり親魏倭王という称号と、100枚の銅鏡で卑弥呼を権威づけたわけです。

なぜ権威づけたかというと、卑弥呼が共立されたリーダーであったため立場が弱かったからです。

さらに当時の邪馬台国連合が狗奴国(くなこく)と戦争を行っており、戦争を有利にしたかったという目的もありました。

魏が卑弥呼の朝貢を受け入れた理由

ではなぜ魏は辺境にある邪馬台国連合の卑弥呼の朝貢を受け入れたのでしょうか?

この理由を説明するポイントとして、当時の中国が(ご)、(しょく)に分かれる三国時代(さんごくじだい)だったことにあります。

3国のなかでも魏はほかの2国よりも圧倒的に強い力を持っており、ほかの呉と蜀は同盟を結ぶことで魏に対抗できていました。

しかし呉と蜀に同盟を組まれると、魏でも滅ぼすことは難しくなります。

そこで魏が何を考えたかというと、邪馬台国と結ぶことで呉を牽制(けんせい)させようとしたのです。

どういうことかというと、当時の魏の首脳たちは邪馬台国の位置が、呉の南側に存在すると認識していました。

邪馬台国と三国志
学ぶ一般人
学ぶ一般人

えっ!でも実際には邪馬台国は日本にあるから、呉の南側というより東側になるよ。

だるま先生
だるま先生

だから魏としては邪馬台国は呉の南側にあると思いこんでいたということだね。当時は正確な地図もないし、魏にとっての辺境の情報はあいまいだからね。

このように魏は、邪馬台国が呉の南側にあると認識していました。

よって魏が邪馬台国と上下関係を結ぶことで、呉の南側にある邪馬台国に牽制(けんせい)させようとしたのです。

このような理由から、魏は卑弥呼の朝貢を受け入れたのです。

その後の邪馬台国

このように卑弥呼は魏との朝貢関係を結ぶことに成功します。

しかしながら卑弥呼は、狗奴国との戦争中である240年代に病気で亡くなったようです。

そのあとの邪馬台国連合では、男性のトップが立てられましたが、再び内部対立が起きてしまいます。

そこで、卑弥呼の親族の女性といわれる壱与(いよ)もしくは、台与(とよ)が邪馬台国連合のトップになることで内部対立が収まります。

そして邪馬台国連合のトップである壱台も、魏に朝貢の使者を派遣したことが史料に書かれています。

邪馬台国の場所

ここでは邪馬台国に関する論争、つまり邪馬台国論争(やまたいこくろんそう)について説明します。

邪馬台国は畿内説と九州説がある

この邪馬台国論争は江戸時代から続いています。

この論争における論点は、邪馬台国の場所に関するものです。

史料には、帯方郡から邪馬台国までの道順がかかれています。

しかし史料通りに進むと、邪馬台国は太平洋の海の中となってしまいます。

そのため史料にある距離もしくは方向のいずれかが間違っていたのではないかと考えられています。

こうして現在まで続く説として、九州説畿内説のふたつが存在します。

纏向遺跡と箸墓古墳の重要性

この邪馬台国論争において近年重要となっている遺跡が奈良県桜井市にある纏向遺跡(まきむくいせき)です。

纏向遺跡は、3〜4世紀ころの大規模な集落跡です。

ここで重要なのは纏向遺跡から3世紀前半ころに建てられた大規模な建物跡が3つも発見されていることです。

3世紀前半というと、卑弥呼が活躍したと思われる年代とピッタリ一致しており、纏向遺跡が邪馬台国の中心があった場所ではないかと有力視されているのです。

さらに纏向遺跡が重要視されているのは、領域内に日本最古の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)である箸墓古墳(はしはかこふん)があることです。

この箸墓古墳は3世紀中頃の古墳で、女性が埋葬されていると推測されています。

3世紀中頃というと、ちょうど卑弥呼が亡くなった年代であり、埋葬者が女性であることも重なっています。

つまり箸墓古墳に埋葬されているのは、卑弥呼、もしくは後継者である壱台かもしれないと推測されているのです。

このように纏向遺跡や箸墓古墳は、邪馬台国の畿内説を裏付ける重要な証拠となっているのです。

古墳時代の始まりが変わる可能性

さらに箸墓古墳が卑弥呼、または壱与の墓と仮定すると、日本史を塗り替えるほどの重要な変化となります。

なぜなら現在において古墳時代とは、前方後円墳が作られていた時代と定義されているからです。

もしも日本最古の前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼、もしくは壱与のお墓であると断定された場合、邪馬台国の時代も古墳時代であることになってしまいます。

このように纏向遺跡や箸墓古墳は、大きな注目を集めています。

ただし箸墓古墳を卑弥呼・壱与の墓とするのは畿内説による主張です。

九州説でも、例えば佐賀県の吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)が邪馬台国の中心であるなど独自の論を展開しています。

つまり邪馬台国の位置については、まだ完全に決着はついていないわけです。

まとめ

  • 邪馬台国とは単独の政治勢力ではなく、邪馬台国を含む29カ国の小国による連合体による邪馬台国連合といえるものである。
  • よって卑弥呼も邪馬台国の首長であると同時に、邪馬台国連合のトップでもあった。
  • 卑弥呼は共立されたリーダーで、実力で勝ち取ったリーダーでないので権力が弱かった。
  • 魏は邪馬台国連合に、ライバルの呉をけん制させるために、卑弥呼の朝貢を受け入れた。
  • 箸墓古墳がある纏向遺跡は邪馬台国があった場所ではないかと有力視されている。

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