【藤原京遷都】都城制と条坊制によって、天皇の中央集権化を象徴する都となった!

藤原京遷都アイキャッチ 日本史

はじめに

あなたは碁盤(ごばん)の目の道路がある日本の都というと、どこを想像しますか?

京都の平安京(へいあんきょう)ですか?

それとも奈良の平城京(へいじょうきょう)ですか?

しかしこれらの都の前に、藤原京(ふじわらきょう)という都があったのを知っていますか?

今回は日本初の碁盤の目の道路がある藤原京について説明していきます。

藤原京とは革新的な都である

ここでは新しくできた藤原京の特徴について説明します。

藤原京の遷都

藤原京(ふじわらきょう)は、694年に遷都します。

藤原京建設を計画したのは天武天皇(てんむてんのう)ですが途中で亡くなり、遷都した時の天皇は、次の持統天皇(じとうてんのう)となります。

下にあるのが、藤原京の概要図です。

藤原京は都城制と条坊制を備えた新しい都

藤原京の大きな特徴は、都城制(とじょうせい)と条坊制(じょうぼうせい)を備えた中国風の都であるということです。

ではそれぞれ説明します。

まず都城制(とじょうせい)とは、天皇の家である(みや)の周りに(きょう)という空間を設けた都のことです。

また条坊制(じょうぼうせい)とは、京の部分に東西の道路である(じょう)と、南北の道路である(ぼう)をいくつも作られた制度のことです。

藤原京は天皇による中央集権化を象徴する都

この都城制と条坊制をもった藤原京はとても画期的なものでした。

どこが画期的かというと、いくつもの条と坊があると、道路が交わる部分で碁盤目状のいくつもの四角い区画ができます。

この四角い区画は結構な広さがあるため、この区画内に邸宅を作らせて、律令国家(りつりょうこっか)に仕える官人(かんじん)、僧侶(そうりょ)、一般庶民を住まわせたのです。

さらに藤原京の宮には、天皇の家だけではなく、さまざまな儀式や外交の使者を迎える大極殿(だいこくでん)や、天皇が政務を行う朝堂院(ちょうどういん)などの施設が作られました。

もちろん官人たちが仕事を行う施設である官衙(かんが)も作られました。

すると、どのようなことが起きるのでしょうか?

それは律令国家に仕える官人たちが、毎日、儀式に参加したり、仕事をするために宮に通勤するようになるということです。

これまでだとヤマト政権に使える豪族たちは、氏(うじ)の単位でそれぞれが仕事をもらって、自分の家、つまり宅(やけ)で仕事をおこなっていました。

つまり豪族がバラバラに仕事をおこなっていました。

これに比べて都城制・条坊制がある藤原京では、官人たちが天皇がいる宮に毎日集まって仕事をおこなうという、中央集権的になるわけです。

つまり藤原京とは、天皇による中央集権化を象徴する都であるわけです。

藤原京は永続的な都

さらに藤原京の特徴は、永遠に住むことを想定して作られた都であるということです。

なぜならば、都の周りに京を整備したり条坊制の道路を敷くには膨大(ぼうだい)な予算がかかるし、京の中にはすでに官人などの家も建っています。

これまでの宮のように、大王が変わったらすぐに宮を変更することはできないのです。

(これまでの宮についてはこちらの記事をご覧ください)

ちなみに藤原京は、持統天皇・文武天皇・元明天皇三代の都となりました。

このあと作られる平城京(へいじょうきょう)、長岡京(ながおかきょう)、平安京(へいあんきょう)も都城制の都となり、藤原京はこれらの原型ともいえる都といえるわけです。

藤原京は前の飛鳥浄御原宮を拡大したものである

ここからは、追加説明となります。

藤原京の名前について

まず藤原京という名前ですが、持統天皇の時代から台頭してきた中臣鎌足の息子である、藤原不比等(ふじわらのふひと)からきているのではありません。

藤原京のある場所が、藤原(ふじわら)という場所にあったから藤原京と付けられたのです。

しかし藤原不比等とも、あながち無関係でもありません。

この藤原は、中臣鎌足の出身地なのです。

669年に中臣鎌足が亡くなる時、天武天皇は中臣鎌足の出身地である「藤原」の氏が与えられたました。

自分の生まれ故郷の地名を氏に与えられることはとても名誉なことであり、中臣鎌足の天智天皇への功績が認められたということです。

だから、息子である不比等と藤原の氏を名乗っているのです。

藤原京の場所について

なお藤原京の場所ですが、じつは天武朝の都である飛鳥浄御原宮の北西に隣接しています。

当時の史料によると、藤原京は飛鳥浄御原宮を拡大したものと解釈しており、当時の人々は藤原京のことを「新益都(あらましのみやこ)」と呼んでいたようです。

つまり藤原京を「これまでの都を新たに拡大した都」と理解していました。

時代区分においても、藤原京に都があった時代も「飛鳥時代」に含まれる理由は、当時の人々が藤原京も飛鳥にある都と理解していたからです。

まとめ

  • 藤原京を計画したのは天武天皇であるが、完成したのは694年の持統天皇の時代である。
  • 藤原京は、日本初の都城制と条坊制をもった都である。
  • 都城制とは、天皇が住む宮の周辺に官人などが住む京があることである。
  • 条坊制とは京を条と坊という道路で碁盤目状に区切ることである。
  • 藤原宮には天皇の家だけでなく政務をおこなう場所や儀式をおこなう場所をおいたため、官人は毎日、宮に通勤することになり、中央集権化を象徴する都となった。

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