日本史

【第二回遣隋使】推古朝は隋との平等外交を目指したわけではなかった!

607年、小野妹子を使節として第二回遣隋使が送られた。この遣隋使で隋に朝貢はおこなうが、称号などの冊封を受けない姿勢をとった。その理由として朝鮮半島において敵対する新羅よりも有利な立場に立つためであった。
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【冠位十二階と憲法十七条】推古天皇は隋に認められるために改革した!

600年に第一回遣隋使が派遣されるが中国風の政治制度を持たない倭は国交を断られる。そのため推古朝は中国風の広場をもつ小墾田宮を建設したり、中国風の序列である冠位十二階を定めた。さらに豪族に官僚としての自覚を持たせるために憲法十七条を施工した。
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【推古天皇と厩戸皇子】なぜ女帝が誕生し、厩戸皇子が政治を補佐したのか?

推古天皇が即位した背景には、約300年ぶりに中国で隋という統一王朝が誕生したことにあった。隋に対抗するため蘇我馬子は、蘇我氏血縁者だけで国内改革をおこなう必要があると考え、蘇我氏血縁者である推古天皇や厩戸皇子とともに政治をおこなおうとした。
日本史

【飛鳥時代】推古天皇が蘇我氏の開発地である飛鳥に政治の中心を移す!

飛鳥時代は、推古天皇が蘇我氏の開発地である飛鳥に政治の中心を移したことで始まった。蘇我氏がヤマト政権内で台頭した背景には、部下に渡来人が多いことと、欽明天皇と外戚関係を結んだことにあった。ここでは日本史学習における系図の重要性も教えます。
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【古墳時代の終末】古墳が権力者のモニュメントから家族の墓に変化した

古墳時代後期になると、大王の権力が充分に大きくなったことで、「モニュメント」としての大規模な古墳の意味がなくなった。こうして古墳は「家族の墓」としての意味合いが強くなった。代わって仏教の寺院がモニュメントとして作られるようになった。
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【国造と部民】中央有力者が所有する人民と有力な地方豪族との関係!

国造制とは大王が有力地方豪族に地方支配を任せる制度であり、部民制とは大王・王族・豪族それぞれが庶民から税をとる制度です。これらは密接な関係がありました。それはかれらが税をとる部民が国造が支配するクニのなかにいたからです。
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【氏姓制度】大王が豪族に氏名(うじな)と姓を与えて権力を高めた!

大王は豪族に氏(うじ)という血族の集団ごとに氏名(うじな)を与えたり、ヤマト政権における序列を示す姓(かばね)を与えた。これにより大王は自分の権力を高めた。さらに臣や連を持つ豪族は、ヤマト政権の国政運営に参加することが許された。
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【磐井の乱】朝鮮半島の新羅と組んでヤマト政権をゆるがした大反乱!

6世紀になると朝鮮半島において、新羅が勢力を拡大し加那を滅ぼそうとしていた。ヤマト政権は加那を助けるために出兵しようとするが、新羅と交流がある北九州の大豪族である磐井が反乱をおこした。この磐井の乱により出兵は中止され加那は滅亡する。
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【雄略天皇】律令国家のきっかけを作った偉大なる大王と巨大古墳の関係!

ワカタケル大王こと雄略天皇は、宋の皇帝より「安東大将軍倭王」をもらいながらも、国内向けの称号として「治天下大王」と名乗って使い分けた。これは雄略天皇の日本国内における「天下」を意識したものであり、のちの天皇中心の律令国家の原点となった。
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【倭の五王】ヤマト政権トップ=大王の権力が飛躍的に高まった時代!

古墳時代中期(5世紀)でも、日本(倭)は朝鮮半島で高句麗と戦い続けていた。ヤマト政権のトップは長期の戦いに不満な豪族たちを従わせるために、鉄資源の独占、渡来人の技術の独占、宋への朝貢をおこなうことで自分の権力を高めようとした。