【大宝の遣唐使】日本は新羅と緊張関係になったから遣唐使を復活させた!

日本史

はじめに

672年の壬申の乱(じんしんのらん)において、大海人皇子(おおあまのおうじ)は唐と距離を置き新羅との関係を重要視しました。

そのため大海人皇子が天武天皇(てんむてんのう)となると、遣唐使派遣を停止することになりました。

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しかしながら702年の大宝の遣唐使(たいほうのけんとうし)において、遣唐使派遣がふっかつすることになります。

ではなぜ遣唐使派遣が復活することになったのでしょうか?

今回は遣唐使派遣を復活することになった経緯について説明します。

遣唐使が復活した理由

ここでは7世紀の東アジア外交を見ていきます。

奈良時代の日本が関わっていく国は、(とう)、新羅(しらぎ)、渤海(ぼっかい)となります。

つまり日本、唐、新羅、渤海の4カ国の関係を見ていくことが奈良時代の外交を見るポイントとなります。

7世紀後半の外交関係

では8世紀の奈良時代の外交を説明する前に、比較するために7世紀後半の外交関係について説明します。

まず唐と新羅は対立関係です。

これは朝鮮半島をめぐって670年から676年にかけて唐と新羅が戦争していた(唐羅戦争)からです。

そして新羅が唐に勝利して、676年に朝鮮半島を統一することになりますが、唐との対立関係は残っています。

しかし、唐が敗北してといっても、唐としては西の吐蕃(とばん)とも対立関係になったので体制を整えるために、あえて撤退しただけなので注意してください。

日本(倭)と唐・新羅との関係ですが、天武・持統朝の外交方針により、遣唐使を派遣せず唐とは距離を置きますが、新羅とは友好関係となります。

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ただし日本と新羅はお互いに平等な友好関係ではありません。

唐と新羅とは対立関係であるので、日本(倭)側から新羅へ強く朝貢(ちょうこう)を要求すれば新羅としては朝貢に応じなくてはいけなくなります。

よって新羅は屈辱(くつじょく)を感じなからも、日本(倭)の朝貢要求を受け入れて、低姿勢外交をおこなうことになります。

日本(倭)は律令国家の建設期にあたりますが、唐とは疎遠であるので、唐の情報・文物は新羅経由で入手することになります。

ただし唐と新羅も、のちに対立関係になるので、新羅経由の唐の情報は少し古い情報となります。

7世紀末の外交関係

これが7世紀末になるとどのように変わっていくのでしょうか?

まず唐ですが、吐蕃との対立関係はそのまま続きますが、さらに北の突厥(とっけつ)も再び唐から独立して対立関係になります。

さらに新羅の北側には渤海(ぼっかい)も建国されました。

渤海とは、698年に高句麗の遺臣と現地のツングース系民族が合わさってできた国家です。

これで唐はこれまでの新羅・吐蕃に加えて、突厥とも対立関係となったわけです。

このように周囲すべてが唐の敵となると、東の新羅よりも西の突厥・吐蕃との戦争を優先するようになります。

この唐の戦略方針の変更により、唐は東の新羅と友好関係を結ぶようになります。

そして一方の新羅としては、唐と友好関係となったので、あえて日本(倭)との低姿勢外交を行う必要性がなくなるわけです。

こうして新羅はしだいに日本(倭)への朝貢を拒否していくようになります。

こうなると日本(倭)は、唐とは疎遠、新羅とは緊張関係と、東アジア世界で孤立することになります。

そこで日本(倭)は、唐との関係を改善して遣唐使の派遣を再開するようになったのです。

つまり日本が遣唐使を復活させたのは、日本と新羅が友好関係から緊張関係に変化したからです。

大宝の遣唐使について

ここでは復活した最初の遣唐使である大宝の遣唐使(たいほうのけんとうし)について説明します。

大宝の遣唐使とは

こうして702年に、約30年ぶりに復活した初めて遣唐使である大宝の遣唐使(たいほうのけんとうし)が派遣されます。

ちなみに遣唐使(けんとうし)は、派遣された年号を入れることで区別しています。

例えば「養老(ようろう)の遣唐使」とか、「天平(てんぴょう)の遣唐使」といった具合です。

遣唐使はこのように多くありますが、702年の大宝の遣唐使はとても重要です。

30年ぶりに復活して初めての遣唐使であることはもちろんですが、そのほかにも重要なポイントがあります。

遣唐使の航路が変更された

最初の大宝の遣唐使のポイントは、遣唐使の航路が北路(ほくろ)から南路(なんろ)へと変更されたことです。

これまで7世紀に派遣された遣唐使では、朝鮮半島、つまり新羅沿いのルートである北路を使っていました。

しかし8世紀になると、朝鮮半島を支配する新羅と緊張関係になったことから、東シナ海を突っ切るルートである南路に変更します。

この南路を通ると、遣唐使船が遭難(そうなん)しやすいとよく説明されます。

その理由は、遣唐使は朝貢の使節であるため、元旦(1月1日)には、唐の皇帝に必ず年賀あいさつをしなくてはいけないからです。

「なんのこっちゃ?」と思うかもしれないので説明します。

では年賀あいさつがある元旦から逆算をして日本を出発する時期を見ていきますね。

まず、唐の役人のあいさつといった年賀あいさつの下準備のために唐の都・長安に11月末ころには到着しなくてはいけません。

そして唐の港から長安まで陸路で1~2ヶ月必要と考えると、9月末〜10月初めまでには中国の港に到着しなくてないけません。

さらに海路で20〜30日くらいかかるとすると、日本の難波津(なにわづ、現在の大阪港)を出発するのは8月下旬から9月初旬ころとなります。

すると海上移動の時期(9月中)が、ちょうど台風の時期と重なることになります。

つまり唐の皇帝への年賀あいさつをするには、海上移動の時期(9月)がちょうど台風の時期と重なるために南路は遭難しやすいのです。

遣唐使は朝貢の使節であるため、日本を出発する時期が決まっているために、南路を通ると遭難しやすいということです。

遣隋使の国書で日本の国号を使う

さらに大宝の遣唐使で日本(にほん)という国号を使用しました。

つまり対外的に国号が「倭(わ)」から「日本」となったわけです。

この「だるまのヒストリー講座」では、便宜上「日本(倭)」と表現していましたが、この時代からは「日本」とのみ表記することができるわけです。

日本という国号ですが、日の本(ひのもと)、つまり太陽が昇る「東」を指します。

つまり日本は、唐の東側にある朝貢国であることをアピールするために付けられたものです。

白村江の戦いで戦った「倭」のイメージを払拭(ふっしょく)するために国号を変えたともいわれています。

大宝の遣唐使が平城京遷都のきっかけになった

この大宝の遣唐使ですが、唐の都・長安を見学したり、最新の律令制度を学んだりしました。

そして帰国した遣唐使によって、奈良時代における、さまざまな改革のきっかけになります。

その一番の例が、平城京遷都です。

遣唐使が長安を見学したからこそ、これまでの藤原京の構造が長安と違うことがわかって、平城京へ遷都するきっかけとなったのです。

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この大宝の遣唐使以後、約15年〜20年周期で遣唐使が派遣されることになります。

渤海が日本へ朝貢する

では7世紀末から8世紀になるとどのように外交関係が変化したかを説明します。

8世紀の外交関係

対立構図については7世紀末とほぼ変わりません。

しかし唯一変化したのは渤海です。

8世紀に渤海は唐と対立関係になります。

すると唐としては突厥や吐蕃と戦っているので、新羅から渤海をけん制させようとします。

これにともない、唐と新羅の関係はより親密になります。

このことで新羅は日本への朝貢をさらに拒否するようになり両者の緊張関係は悪化します。

渤海と日本との関係

では一方の渤海ですが、唐と新羅と対立関係になることで東アジアで孤立することになります。

そこで渤海は、新羅の背後にいる日本との関係を持とうとして使節を派遣することになります。

そのとき対立関係にある新羅沿いに通るのは危険なので、渤海の使節は日本海を横断してやってきます。

そのため渤海の使節がやってきた際、日本海沿いにある北陸道(ほくりくどう)で対応することになります。

渤海の使節を接待するために作られたのが、能登国にある能登客院(のときゃくいん)と、越前国にある松原客院(まつばらきゃくいん)です。

さらに渤海側から日本との外交を求めているので、日本は渤海の足元を見て朝貢を要求し、渤海はそれを了承します。

そして渤海の日本への朝貢は、渤海が滅亡する926年まで続くことになります。

まとめ

  • 奈良時代の外交関係で重要なのは、日本新羅渤海との関係性である。
  • 7世紀後半は唐と新羅が対立関係にあったため、日本(倭)は新羅に朝貢関係を迫り、新羅は了承した。日本と唐は疎遠。
  • 7世紀末になると、唐と新羅が友好関係となったため、新羅は日本への朝貢を拒否して緊張関係となる。
  • そのため日本は東アジアでの孤立化を恐れて、702年から遣唐使を復活させ、「日本」の国号を使いはじめる。
  • 8世紀になると渤海が唐や新羅と対立したため、日本と関係を深めようとしたが、日本は足元をみて朝貢を要求し、渤海はこれを了承する。

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