はじめに
今回の記事は、ヤマト政権の政治制度である国造制(くにのみやつこせい)と部民制(べのたみせい)をまとめて説明します。
なぜ国造制と部民制を説明するかというとこの2つが密接に関わっているからです。
その内容については記事を見てください。
ちなみに国造制とは、有力な地方豪族に地方支配を任せる制度であり、部民制とは大王、王族、豪族それぞれが所有する人民から税をとる制度です。
では今回は国造制と部民制がどのようにかかわってくるのか説明します。
ヤマト政権の政治制度について
古墳時代のヤマト政権において、政治制度(せいじせいど)が整備されたのは、基本的に古墳時代後期にあたる6世紀ころです。
ヤマト政権の政治制度とは、
- 氏姓制度(しせいせいど)
- 国造制(くにのみやつこせい)
- 部民制(べのたみせい)
の3つです。
この3つの政治制度が整備され、ヤマト政権における大王(おおきみ)の権力が高まりました。
さらに、大王の位が特定の血筋(大王家)によって世襲できるようになったのです。
(詳しくはこちらの記事をご覧ください)
この記事では国造制と部民制についてのみ説明しますが、一部に氏姓制度と関連する部分があるので、こちらの氏姓制度の記事を先に読むことをおすすめします。
国造制について
ここでは国造制について説明します,
地方豪族から人質をとるかわりに国造として地方支配を任せた
国造制(くにのみやつこせい)は、ヤマト政権の地方支配制度であり、6世紀前半の磐井の乱(いわいのらん)鎮圧後から整備が進みます。
(磐井の乱についてはこちらの記事をご覧ください)
この国造(くにのみやつこ)とは、大王が有力な地方豪族の領域の支配権を認める役職のことです。
大王が有力地方豪族を国造に任命することで、大王と有力地方豪族との間に明確な上下関係ができました。
磐井の乱のあとに国造制が作られたとあるけど、なんで?
大王としては、命令に従わない地方豪族をこれ以上出したくなかったんだよ。だから有力地方豪族を国造という役職に任命したんだ。
実際に6世紀は、ヤマト政権の地方に対する締め付けが厳しい状態でした。
なぜならば磐井のほかにも、ざまざまな場所でヤマト政権に対する地方豪族の反乱がおきていたからです。
たとえば関東地方南部や群馬県(上毛野)あたりでも地方豪族の反乱が起こっていました。
このため国造に任命された豪族は、自分の子供を人質として大王がいる中央(ヤマト地方)へ提供することになっていました。
その人質たちは、男性は舎人(とねり)、女性は采女(うねめ)という役職に任じられました。
(ちなみに男性は靫負、ゆげいという役職にも任命されましたがここでは省略します)
このように有力地方豪族は、自分の息子や娘を中央へ人質を出す代わりに、自分の支配領域(クニ)の支配権を大王から正式に認められたわけです。
逆にいうと、国造に地方支配すべてを任せることで反乱を起こされないように、大王は国造から人質を取ったともいえます。
なお国造の支配領域を「国」とせず「クニ」とカタカナて表記したのは、「国」を旧国名と勘違いさせないためです。
あくまで「クニ」とは、旧国名ではなく、国造の支配領域のことですのでご注意ください。
人質となった子供について
それにしても人質なんて大変だよね。だって自分の親が大王を裏切ったら、すぐに殺されちゃうんでしょう。
たしかに人質なので国造が裏切ったら殺されます。でも人質をだすことで、国造だけでなく、人質になった子供にも利益があったんです。
その理由を説明する前に、舎人と采女という役職について説明します。
まず舎人は、大王の側で敵から襲われないように警護する親衛隊のような役職で、采女は大王の側で大王の身の回りの世話をする役職です。
つまり舎人も采女も大王の側近くで仕える役職です。
このことが国造および、その子供の利益となったのです。
理由を説明します。
まず舎人となった息子の場合ですが、彼らは「将来の国造候補」となる可能性がありました。
つまり国造は世襲制なので、もし父親である国造が引退した場合、舎人である息子がクニに帰ってきて国造になる確率が高いということです。
なぜなら大王と元舎人である国造との関係が親密な場合、元舎人だった国造を通して、クニに対する大王の権力を強くすることができるからです。
もちろん元舎人の国造にとっても、「俺は昔、大王の側近くに仕えていたんだぞ」と周囲にアピールできる利点もありました。
大王と元舎人の国造双方に利益があるということです。
つぎに采女となった娘ですが、彼女たちは「将来の大王の側室候補」となる可能性がありました。
大王の側近くで世話をすれば、自然と恋愛感情も芽生えますし、運が良ければ、大王の子供を産む可能性だってあるわけです。
こうなれば、父である国造にとっても悪い話ではありません。
なぜならば、もしも自分の娘が大王の子供を産めば、大王の親戚となり、ヤマト政権にある程度の影響力を残すことができるからです。
つまり国造が、自分の息子や娘を大王の人質を出すことは悪いことばかりではなかったということです。
ダメ押しとして国造のクニに屯倉を設置した
このように国造制によって大王の権力が地方にも拡大していきました。
しかし人質を取ったはずの国造のなかにも裏切り者が出ないとは限りません。
そこで国造が大王を裏切らないように人質をとりましたし、さらにもう一つ政策をおこないました。
それは大王の監視拠点として、国造のクニの内部に屯倉(みやけ)を設置したことです。
屯倉とは、土地付きの大王の建物、つまり拠点であり、ヤマト政権に反乱を起こした磐井の乱の後に全国に設置されました。
たとえば、福岡県には糟屋屯倉(かすやのみやけ)ができるのですが、これは磐井の乱鎮圧後に磐井の息子が服従を示すために大王に提供した拠点です。
この糟屋屯倉は、のちに律令国家の外交拠点となる大宰府(だざいふ)として発展していきます。
このようにヤマト政権は国造を統制するために人質をとったり、屯倉を設置したわけです。
ここまでが国造制の説明となります。
部民制について
つぎに部民(べのたみ)制について説明します。
部民制とは、さまざまな権力者が民衆の支配する制度
まず部民(べのたみ)についてですが、簡単にいうと、有力者が所有する地方に住む人民(じんみん)たちのことです。
部民は大きく分けて、
- 名代・子代の部(なしろ・こしろのべ)
- 部曲(かきべ)
- 品部(しなべ)
の3種類があります。
この民衆である部民たちは、下の図のようにヤマト政権にいる大王・王族・豪族に人(つまり労働力)や物、つまり税を納める役割があります。
ちなみに3つの部民すべてに「部」が付きますが、これは部民の「部」のことです。
まず大王や王族に税を納める部民を名代・子代の部(なしろ・こしろのべ)といい、豪族に税を納める部民を部曲(かきべ)といいます。
つまり税の納入先が大王・王族、もしくは豪族との違いで、名代子代の部と部曲と分けているわけです。
これらに対して品部(しなべ)は性格がすこし違います。
品部も一応民衆ではあるのですが、大陸から渡ってきた渡来人技術者たちで構成されていました。
そして彼らが提供するものは人や物ではなく、大陸の技術を提供しました。
古墳時代中期に、大王は渡来人技術者を独占し、須恵器を作る陶作部(すえつくりべ)とか、外交文書を作る史部(ふひとべ)など担当ごとに分けていました。
(詳しくはこちらの記事をご覧ください)
このように大王が渡来人技術者を独占することで大王の権力が大きくなったわけですが、この渡来人技術者たちが品部であるわけです。
大王が豪族に部曲を持つ権利を与えることで権力を拡大した
では大王にとって、豪族に部曲を持たせることはどのような意味があったのでしょうか?
それは豪族の部曲とは、大王と臣従した豪族との間に上下関係ができた場合にのみ認められたということです。
よって大王の権力が豪族よりも上だからこそ、「おまえには〇〇という土地に住む民衆から人や物を提供してもらっていいぞ」と命じられるわけです。
つまり部民制は、大王の権力が強まっているからこそ成立するともいえるわけです。
大王・王族・中央豪族の部民は、国造が直接支配した
このように大王・王族・豪族は部民という民衆を所有していたわけですが、ここで気をつけて欲しいことがあります。
それは大王・王族・中央豪族といった中央(ヤマト地方周辺)に住む人の部民は、有力な地方豪族である国造が直接支配したということです。
なぜならば、これらの部民が国造が直接支配するクニの中にあるからです。
しかしながら、それぞれの部民はそれぞれの所属先に税を納めなくてはいけません。
たとえば大王の名代・子代の部は、大王に税を納めなくてはならないわけです。
つまり国造の支配を受けつつも、人によって税を納める先が違う、つまり税を必ずしも国造に納めるわけではないということです。
(国造の部民はもちろん国造に税を納めます)
ここであなたが国造ならばどのように考えますか?
うーん、いけないことだけど支配している部民に「これからは税を俺のところに納めろ!」と命令するかな。だって国造が部民を支配しているんだから。
たしかにそう考えるよね。でもそれを防ぐ仕組みがあったんだよ。
それがさきほど国造制のところで説明した大王の対策です。
つまり、
- 大王へ国造の息子・娘を人質(舎人・采女)として差し出させる。
- 大王と親しい元舎人(国造の息子)を次の国造としてクニへ送り込む。
- クニのなかに屯倉を設置して国造を管理する。
といった対策です。
これらの対策により、国造は中央にいる人たちの部民を奪う動きはできなくなります。
ここで重要なのは、国造制と部民制は重なり合っていることに意味があるということです。
つまり国造制によって、国造の動きが監視されているからこそ、部民制として中央へ人や物が届くということです。
(だからこの記事で、国造制と部民制の両方を説明しました)
地方にいる部民のまとめ役は伴造、中央の伴のまとめ役も伴造
地方(クニ)において、国造の下で部曲や名代・子代の部(在地の部という)たちをまとめる役目の人がいます。
その人のことを伴造(とものみやつこ)といいます。
さらに地方にいる中央が所有する部曲や名代・子代の部は、中央に人(労働力)を提供するわけですが、中央へ提供される人たちのことを伴(とも)といいます。
こうして地方から伴が中央にいる大王・王族・中央豪族の家に派遣されるわけですが、それぞれの家に派遣される伴のまとめ役も伴造(とものみやつこ)といいます。
えっ!同じ名前じゃん!
変えることはできないの?
そうなっているんだから仕方ありません。「造」にはまとめ役という意味があるみたいです。「国造」もクニ(国)のまとめ役だから「国造」となります。
つまり伴造とは、
- 在地の部の代表
- 伴の代表
の両方を指すということです。
ヤマト政権の政治制度のまとめ
ではここではヤマト政権の政治制度(氏姓制度・国造制・部民制)すべての補足説明とまとめを説明していきます。
(なお氏姓制度の記事を読んでいない人はこちらをご覧ください)
国造の重要性
このようにヤマト政権の政治制度を見ていくと、国造の存在感が大きいことがわかります。
なぜなら中央の大王・王族・中央豪族に提供される人や物といった税を実際に管理しているのは、地方にいる国造であるからです。
よって国造が大王の支配下に入っていることが重要であり、国造の存在感が大きいからこそ屯倉という監視機関が存在するわけです。
氏姓制度と部曲の関係について
氏姓制度において、大王に従う豪族を氏(うじ)とよばれる集団に編成しましたが、氏のリーダーのことを氏上(うじのかみ)といいます。
たとえば蘇我馬子の蘇我氏を例にすると、氏上は蘇我馬子となります。
その下に血縁関係者である子の蘇我蝦夷(そがのえみし)や孫の蘇我馬子(そがのうまこ)や蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)がいます。
ここまでは現在でも同じです。
しかし氏姓制度の氏では、蘇我氏に人や物を提供する部曲(蘇我部)といった血縁関係者以外の人も含まれていることが違いとなります。
部民制から公地公民制へ変化していく
これらのヤマト政権による政治制度の整備によって大王の権力が大きくなりました。
しかしながら問題点もあります。
それは部民制の場合、大王・王族・豪族に人や物といった税が入ることになりますが、大王は自分以外の王族や豪族にどれくらいの税収があるか全くわからないことです。
これのどこが問題なのかというと、大王からみると実はほかの王族や豪族のほうが自分よりも経済力を持っている可能性も考えられるからです。
大王がその事実を知らないまま、王族や貴族から反乱を起こされることことだってあるわけです。
つまり大王からいったら王族や豪族が持つ部民からどれくらいの税収が入ってくるか把握できたほうが都合がいいわけです。
そこで8世紀に律令国家が成立すると、部民制を解体してすべての税を天皇が集めたあとに、その一部を皇族や律令国家の官僚へ給料として支給するという形に変わります。
つまりこれまでの部民制から、しだいに中央集権化がすすんでいって、律令国家の成立により天皇がすべての人民が支配する公地公民制(こうちこうみんせい)が完成するわけです。
まとめ
- 大王から国造に任命された有力地方豪族は「クニ」の支配を許された。
- 部民制には、名代・子代の部、部曲、品部の3種類あり、名代・子代の部に大王や王族に、部曲は豪族に人や物を提供した。
- 品部は渡来人技術者で構成され、大陸の技術を大王に提供した。
- 部民制のポイントは、地方での影響力が大きい国造を監視する屯倉にあった。
- 名代子代の部や部曲は、すべて国造の支配を受けていたが、税を納める先は人によって違った。
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