はじめに
あなたは平城京(へいじょうきょう)を知っていますか?
「710(なんと)大きな平城京」で覚えましたね。
でもその前の藤原京は694年にできたばかりであり、藤原京はたったの15年くらいで廃されたことになります。
なぜ藤原京は15年間で廃されたのでしょうか?
この記事では平城京遷都の理由や、奈良時代のおおきな特徴について説明します。
平城京遷都について
ここでは奈良時代の概要と平城京移転について説明します。
奈良時代の概要
奈良時代(ならじだい)の時期は、おもに8世紀にあたります。
そして奈良時代の「奈良」というのは、平城京(へいじょうきょう)のことを指します。
つまり奈良時代とは、平城京が都であった時代のことです。
つまり710年に藤原京(ふじわらきょう)から平城京に都が移り、784年に長岡京(ながおかきょう)へと都が移ったのでざっと8世紀です。
(聖武天皇の時代に一時平城京を離れた時期もありますが、戻ってきたのでカウントしません)
そして奈良時代の文化は、天平文化(てんぴょうぶんか)です。
平城京遷都までの経緯
では奈良時代の要素となる平城京について説明しますが、はじめに平城京の前の藤原京について説明します。
694年に藤原京が完成して遷都しました。
藤原京は日本初の都城制(とじょうせい)の都であり、条坊制(じょうぼうせい)も備えた中国風の本格的な都でした。
(藤原京についてはこちらの記事をご覧ください)
しかしたった15年後の710年に、藤原京から平城京に遷都しています。
ではなぜたったの15年で平城京に遷都したのでしょうか?
まずその理由として両方の都を比べるとわかります。
これが藤原京です。
そしてこれが平城京となります。
となみに北辺(ほくへん)とか外京(げきょう)という出っ張り部分がありますが、左京と右京がある本体のみで考えてください。
ふたつの違いがわかりますか?
まず藤原京は正方形だけど、平城京は縦長の長方形だね。あと宮の位置が藤原京は真ん中だけど、平城京は北の端っこにあるね。
よくできました。
ではなぜこのように都の形状や配置が違うのかを説明します。
当時の律令政府の意識では、藤原京は唐の都である長安(ちょうあん)をまねて造ったと考えていました。
しかし藤原京は実際の長安とは形状も配置もまったく違うものになってしまったのです。
ではなぜこうなってしまったかというと、藤原京は新羅からの情報を元にして造った都だからです。
それに比べて平城京は、遣唐使(けんとうし)の情報です。
つまり平城京は、遣唐使が実際に長安を見た生(なま)の情報から造られた都となります。
ではなぜ藤原京が新羅の情報で、平城京で遣唐使の情報に変化したのでしょうか?
それは藤原京の時代は、日本と唐が疎遠であったために新羅経由の情報しか手に入らなかったが、平城京の時代になると、日本と唐が親密になって遣唐使を派遣できるようになったからです。
つまり藤原京が、実際の長安とは違っていたから、平城京に遷都したのです。
平城京に遷都した理由
ではなぜそこまでして日本は本当の長安にこだわったのでしょうか?
それは遣唐使が派遣されるようになると、さらに日本を中国の政治制度に近づける必要があると考えるようになったからです。
つまり、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)が施工され、日本は律令国家へと改革されましたが、それですべてが完成したわけでないとういうことです。
あくまでも改革が一段落しただけであり、もう一段階の改革があります。
それは律令を運用していって、不具合があったら塗り替えをおこなって修正するという改革です。
つまり奈良時代は、律令制の運用期であり、律令国家の不具合の塗り替えをおこなった時期といえるわけです。
この方針に沿って、不具合がある藤原京を、正しい都である平城京へと塗り替えたわけです。
これが平城京遷都の理由です。
ちなみに律令自体についても、これまでの大宝律令から、変更が加えられた養老律令(ようろうりつりょう)へと変更されています。
平城京について
つぎに平城京の情報について説明します。
平城宮の構成と施設について
平城京の北端の中央部分には、平城宮(へいじょうきゅう)という天皇の住まいや政務を行う場所が置かれました。
そして北側から南側にかけてゆるやかに下るように配置されています。
このようにすることで、平城宮にいる天皇から南にある京が見下せるようになっています。
(じつはこれにはあるからくりがあるのですが、のちほど説明します)
平城宮から南に向かって、長さ3.7km、幅73mのメインストリートとなる朱雀大路(すざくおおじ)があります。
ここで朱雀大路を境に東側に左京(さきょう)、西側に右京(うきょう)がありますが、なぜこのように呼ばれるのでしょうか?
この地図だと左右が逆ですよね。
このポイントとなるのは、天皇は平城宮においてつねに南側を向く、つまり南面になるように席が配置されていることです。
ではここで天皇視点となるように上下をひっくりかえしてみます。
こうすると天皇から見て左側にあるのが左京で、右側にあるのが右京となります。
つまり平城京は、天皇中心に造られているいるということです。
さらに左京の東の外京(げきょう)や右京の北側に北辺(ほくへん)という出っ張りがあります。
これについてはのちほど説明します。
次に門についてですが、平城宮の南側の入口として朱雀門(すざくもん)があり、平城京の南側の入口として羅城門(らじょうもん)があります。
ちなみに平城京も都城制(とじょうせい)と条坊制(じょうぼうせい)であることは、藤原京と変わりません。
(都城制と条坊制についてはこちらの記事をご覧ください)
出っ張り部分である外京と北辺について
ではあなたも気になっていると思う外京と北辺について説明します。
まず北辺ですが、正式には北辺坊(ほくへんぼう)といい、南北270m、東西1.6kmの右京北側にある出っ張りです。
この出っ張りが作られたのは、奈良時代後期に西大寺(せいだいじ)を造営するにともなうものです。
つまり北西にある西大寺を造ろうとした際、これまでの平城京の範囲内におさめようとすると、寺の面積が狭くなるために北側に京の範囲を拡大したためです。
つぎに外京ですが、もともと外京があるエリアは平城京の範囲外でした。
そしてそのエリアには、当時の権力者である藤原不比等(ふじわらのふひと)をはじめとする藤原氏の邸宅や氏寺(興福寺)などが集中していました。
しかし、しだいに中央(朝廷)における藤原氏の勢力が拡大すると、この藤原氏のエリアも外京として平城京の範囲として含むようになったわけです。
さらにいうと、この外京の部分は標高が高く、平城宮を含む平城京を見下ろす位置にありました。
つまり天皇は平城宮から京に住む人々を見下ろしていたが、藤原氏は平城宮よりもさらに高い位置から天皇を見下ろしていたといえるわけです。
和銅開珎がなぜ作られたか
このようにして平城宮が造られたわけですが、ここで問題とお金の問題です。
これに加えて15年前にも藤原京を造った際に多くのお金がかかっており、中央(朝廷)には本当にお金がありせんでした。
しかし平城京の造営を行う人夫(にんぷ)たちに労働の対価として賃金を支払わなくてはいけません。
ここで中央(朝廷)は新たにお金を作ることになります。
これが和同開珎(わどうかいちん)です。
これは藤原京を造る際にもおこなわれました。
つまり、天武天皇の時代に藤原京造営の人夫の給料として造られたのが富本銭(ふほんせん)で、元明天皇の時代に平城京造営の人夫の給料として造られたのが和同開珎です。
この新たにお金を作ることは、権力者だけがおこなえる武器です。
庶民がお金を勝手に作っても、ただのわけのわからない贋金(にせがね)でしかありません。
お金に価値を付けるには、権力のお墨付きが必要なのです。
なんで富本銭から新しく和同開珎に作り直したの?富本銭のままだったら鋳型(いがた)も残ってるし作るの簡単じゃん!
理由はよくわかっていないけど、平城京のような不具合の塗り替えがあったと考えられているね。
一説によると、遣唐使の情報から中国の通貨はすべて「開元通宝(かんげんつうほう)」といったように、貨幣名がすべて4文字で構成されているとわかりました。
よって、日本の貨幣も中国の貨幣をまねて「富本」という2文字から「和同開珎」と4文字にしたと考えられています。
つまりお金についても、2文字という不具合があったので、4文字に塗り替えがおこなわれたということです。
まとめ
- 奈良時代は基本的に平城京が都であった時代のことである。
- 藤原京は実際の唐の長安と形状や配置がことなっていたため、新たに平城京を造った。
- 奈良時代は律令制の運用期であり、律令国家に不具合があったら塗り替えるという改革が続けられた。
- 平城京で東が左京、西が右京なのは、平城宮にいる天皇が常に南を向いているため(南面)である。
- 平城京の人夫の給料として、和同開珎が新たに作られた。
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