【律令国家の中央行政】太政官を中心に政策決定したが、天皇の決済が必要だった!

律令国家の中央行政アイキャッチ 日本史

はじめに

あなたは律令国家にどのような機関があったか知っていますか?

すぐには答えられませんよね。

でも現在でも一部は名称が残っています。

たとえば宮内省は現在も宮内庁として存在しますし、現在の財務省は大蔵省という名前で15年くらい前まで残っていました。

そして明治時代初期には、太政官制によって政治がおこなわれています。

このように律令国家の名残はのちにまで残っています。

今回は律令国家の中央行政における機関と、政策決定について説明します。

律令国家の行政機関

ここでは律令国家にあった行政機関とその役割について説明します。

平城京や平安京などの都城には下の律令官制表のように、二官八省一台五衛府(にかんはっしょういちだいごえふ)とよばれる中央行政をおこなう組織がありました。

ちなみにそれぞれ、二官、八省、一台、五衛府と分かれます。

ではそれぞれ説明します。

二官について

まず二官とは、律令国家の中央行政のトップで、神祇官(じんぎかん)と太政官(だいじょうかん)のことです。

まず神祇官とは、朝廷の祭祀をおこなう機関です。

そして太政官とは、律令国家全体の行政方針を決定する脳みそともいえる重要な機関です。

太政官については律令国家の行政においてとても重要なので、別に説明します。

八省について

太政官の下には、太政官で決めた行政方針を役割別に執行する8つの機関があります。

中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の8つです。

それぞれの役割は、

  • 中務省(なかつかさしょう)→天皇のそばで詔勅(しょうちょく。天皇の命令書。)の作成をおこなう。
  • 式部省(しきぶしょう)→文官の人事や官人の教育を担当する。
  • 治部省(じぶしょう)→仏教や外交事務を担当する。
  • 民部省(みんぶしょう)→租税・財政・戸籍・田畑を担当する。
  • 兵部省(ひょうぶしょう)→武官の人事や軍事を担当する。
  • 刑部省(ぎょうぶしょう)→司法を担当する。一般庶民の裁判をおこなう。
  • 大蔵省(おおくらしょう)→朝廷の資産管理・物価管理・度量衡を担当する。
  • 宮内省(くないしょう)→政務以外の宮中の管理を担当する。

といった感じです。

ここで注意したいのは、現在の感覚だと徴税や財政全般はすべて大蔵省というイメージですが、律令国家で租税の徴収や財政を担当していたのは民部省ですので注意してください。

一台と五衛府について

一台とは、弾正台(だんじょうだい)のことで、官人の不正取り締まりや、都城の風紀の取り締まりを行いました。

そして五衛府とは、衛門府(えもんふ)、左・右衛士府(えじふ)、左・右兵衛府(ひょうえふ)の5つの機関のことです。

五衛府は軍事専門の官人である武官(ぶかん)で構成され、天皇や宮城の警護、都城の見回りをおこないました。

要地に置かれる機関

では二官八省一台五衛府以外に地方に置かれる機関について説明します。

まず都城の宮の周辺の京(きょう)の一般行政・警察・裁判については、左・右京職(きょうしき)が担当しました。

また摂津職(せっつしき)は、摂津国の国司の仕事だけでなく、朝廷における外交で重要な港である難波津(なにわづ)や、副都である難波宮(なにわのみや)の管理をおこないました。

大宰府(だざいふ)は、現在の九州地方にあたる西海道(さいかいどう)の管理や唐や朝鮮との外交窓口となりました。

太政官のなかでも議政官が日本の政治政策を決定した

二官八省一台五衛府のなかでも、もっとも重要な機関が太政官です。

ここでは太政官と、朝廷の政策決定について見ていきます。

太政官の役職について

まず太政官についてですが、議政官(ぎせいかん)と、その他の事務官(じむかん)に分けられます。

まず議政官とは、太政官のなかでも朝廷の政策決定をおこなう機関であり、太政官の中枢の機関にあたります。

議政官のメンバーは、トップから太政大臣(だじょうだいじん)、左大臣(さだいじん)、右大臣(うだいじん)、大納言(だいなごん)がいます。

ちなみにのちには中納言(ちゅうなごん)、参議(さんぎ)も加わります。

なお議政官のトップは太政大臣ですが、則闕の官(そっけつのかん)といって通常は置かれないので、実質的に2番手の左大臣がトップです。

そしてその他の事務官として、議政官の事務や秘書を担当する少納言(しょうなごん)や、議政官と八省の間にいる左・右弁官(べんかん)がいます。

太政官の決定事項には天皇によるチェックが入る

ここで重要なのは、議政官だけで政策が決められて実行されるわけではないとういうことです。

じつは議政官で決められた政策は、そのまま実行されるのではなく、天皇のチェックを受けて決済されたのち実行されました。

学ぶ一般人
学ぶ一般人

えっ!でも上の律令官制表に天皇が書かれていないよ?

だるま先生
だるま先生

書かれていないよ。だって律令自体に天皇の規定が書かれていないからね。

でも天皇が律令国家のトップであることはわかりますよね。

なぜなら律令国家とは、「天皇中心の中央集権国家」だからです。

(くわしくはこちらの記事をご覧ください)

つまり、律令国家のトップである天皇によるチェックは、律令に書かれているいないにかかわらず当然のことなのです。

このような律令官制表により、太政官が最高権力者というイメージがありますが、あくまで律令国家のトップは天皇なので気をつけてください。

ただし天皇になって日が浅いとか、病気などで政務に不安がある場合は、天皇を補佐する人たちがいました。

たとえば前の天皇である太上天皇(だいじょうてんのう)であるとか、天皇の妻である皇后(こうごう)、天皇の母である母后(ぼごう)がいます。

さらに平安時代になると、官人の中からも摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)とよばれる人たちも補佐しました。

このように天皇によって決済を受けた事項は議政官に戻され、八省によって実行されていくわけです。

さらに直接、天皇の決済を補佐するのではありませんが間接的に補佐する人物がいます。

議政官による決定事項の文書を天皇に届けたり、天皇により決済を受けた文書をもどすのは、女性の官人、つまり女官(にょかん)がおこないました。

なぜならば天皇の周辺は男子禁制で、天皇の身の回りの世話は女官たちがおこなったからです。

この女官たちのトップを尚侍(ないしのかみ)というのですが、彼女は天皇の側近くにおり、天皇と議政官との書類伝達をおこないました。

つまり尚侍は、天皇から議政官の決定事項についての意見を問われる可能性があり、天皇の決済に影響を与える可能性があるのです。

よって尚侍には、おもに議政官の妻や娘が任命されました。

なぜなら議政官の立場からすれば、自分たちが必死に考えた政策について天皇の決済が降りないと
最初から作り直さないといけないからです。

よって天皇の側近くにいる尚侍を議政官の関係者にすることで、天皇に決済させやすいようにサポートさせたわけです。

議政官のメンバーについて

先ほど説明したように、議政官とは、中央の政治政策を審議する重要な人物となります。

この議政官は、8世紀初頭においては有力氏族からひとりずつ起用されました。

学ぶ一般人
学ぶ一般人

古代の貴族というと、藤原氏だけじゃないの?

だるま先生
だるま先生

そのイメージが強いですが、それはもう少しあとのことです。この時代は複数の氏族からひとりずつ起用されていました。

では議政官となるのはどんな有力氏族でもなれるかというとそうではありません。

ヤマト政権の氏姓制度(しせいせいど)における、臣・連の姓(かばね)をもつ大夫(まえつきみ)といわれる有力氏族が、そのまま議政官としてスライドしました。

(大夫についてはこちらの記事をご覧ください)

議政官になる有力氏族を具体的に上げると、藤原氏(ふじわらし)、大伴氏(おおともし)、安倍氏(あべし)、多治比氏(たじひし)がいます。

しかし8世紀中ごろから、藤原氏が朝廷の中で勢力を伸ばし、藤原氏から複数の議政官が出るようになります。

まとめ

  • 都城には、二官八省一台五衛府という中央行政をおこなう機関がありました。
  • そのなかでも重要なのが、朝廷の政策決定をおこなう太政官で、そのなかでも議政官たちが政策審議をおこないました。
  • ただし議政官が決めた事項は、律令国家のトップである天皇の決済をもらうことではじめて機能しました。
  • 女官のトップである尚侍は、天皇のそばにいるために天皇の決済に影響を与える可能性があった。
  • 議政官は律令国家の初期は各有力氏族ごとにひとりずつ起用されたが、8世紀中ごろになると藤原氏が独占し始めた。

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