はじめに
あなたは現在の中国の外交を見てどのように思いますか?
自分からは頭を下げず、なんとなく偉そうな感じがしませんか?
これは現在の中国人にも中華思想(ちゅうかしそう)が存在しているからかもしれません。
中華思想とは中国人が「自分の国がナンバーワン!」という考えです。
今回は、この中華思想をもとにした中国と周辺国との上下関係である冊封体制(さくほうたいせい)について説明します。
弥生三史料について
ここでは中国側から見た日本(倭)の情報が書かれている弥生三史料(やよいさんしりょう)について説明します。
弥生三史料を見るポイント
弥生三史料(やよいさんしりょう)とは、
- 漢書地理志(かんじょちりし)
- 後漢書東夷(ごかんじょとういでん)
- 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
の3つの史料を指します。
これらの中国の歴史書には、弥生時代(やよいじだい)の日本の記述が出てきます。
つまり弥生時代の日本の情報は、考古学による情報だけでなく、中国の歴史書からも得ることができるのです。
この弥生三史料を見ていくうえでとても重要なことは、史料の内容なもちろんですが、史料が書かれた年代も同時に頭にいれることです。
つまり弥生三史料それぞれにある、「漢書」、「後漢書」、「魏志」とは、「漢=前漢(ぜんかん)」、「後漢(ごかん)」、「魏(ぎ)」という中国王朝に書かれたことが重要です。
ちなみに厳密に言えば、「前漢」と「後漢」は同じ「漢」王朝ですが、途中で反乱で王朝がとぎれているので分かれています。
つまり当時の中国王朝があった、
- 漢書地理志→紀元前1世紀の話
- 後漢書東夷伝→1世紀〜2世紀の話
- 魏志倭人伝→2世紀後半〜3世紀の話
が書かれているということです。
たとえば「魏志倭人伝」には、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)という女性の話が出てきますが、3世紀前半から中頃の話となるわけです。
さらに同じく「魏志倭人伝」で、「倭人」とありますが、これは日本人のことです。
よって弥生三史料を勉強する際は、直接史料に向かう前に、教科書などでこの時代の知識をインプットしてから史料に向かうことをおすすめします。
そのほうが弥生三史料の理解が早くなります。
日本列島が記述している理由
では日本史の本題に戻ります。
ではなぜ弥生三史料に日本列島に関する情報が記述されているのでしょうか?
それは日本と中国はとなり同士だし、情報を書いておきたかったんじゃないの?
でも中国からみたら、当時の日本なんて未開の国だよ。文明国である中国が書きたいと思う?これには理由があるんだ。
ではなぜ弥生三史料に日本列島の情報がかかれているのか?
それは日本は朝鮮半島南部から鉄器(てっき)を輸入していたからです。
(なぜ朝鮮半島から鉄器を輸入していたかについてはこちらの記事をご覧ください)
そして弥生時代の朝鮮半島は、中国の支配下にあったのです。
たとえば漢書地理志には、「楽浪郡(らくろうぐん)」という用語が出てきます。
さらに魏志倭人伝では、「帯方郡(たいほうぐん)」という用語が出てきます。
楽浪郡とは前漢王朝が朝鮮半島を支配するために置かれた郡のことであり、帯方郡とは魏王朝が朝鮮半島を支配するために置いた郡です。
つまりこれら楽浪郡や帯方郡の存在は、中国が朝鮮半島を支配していた具体的な例といえます。
すると日本は朝鮮半島から鉄器を獲得している以上、スムーズに鉄器を獲得するには、中国と良好な関係を築く必要があったわけです。
つまり日本としては、鉄器の安定した確保のためには、中国との交流が必要になります。
こうして日本の権力者たちが中国王朝に外交の使者を派遣すると、中国では「倭(わ)から使者が来たぞ」となります。
ちなみに中国王朝では日本のことを「倭」とよびました。
そして倭と中国との交流を通じて、中国の歴史書にも日本(倭)の情報が書かれることになるのです。
冊封体制とは
ここでは中国との交流形式である冊封体制(さくほうたいせい)について説明します。
中華思想をもつ中国
朝鮮半島の鉄器のスムーズな交易のために日本の権力者たちは中国と交流を持とうとしました。
しかし日中間の交流が、現在の交流とは違うものだったのです。
現在の交流とは、平等な関係であり馴れ馴れしく(なれなれしく)あいさつをしても相手が怒ることはありません。
しかし中国の場合は、日本(倭)の使者が馴れ馴れしくあいさつをすると中国側は怒ります。
なぜならば中国側から見ると、相手との交流は平等な関係でなく、自分が上の立場の主従関係しかないからです。
中国がこのように考えるのは、中国が東アジアナンバーワンの最強国家であり、中国自身でもそれを自負しているからです。
このような中国の「自分は最強国家」と自負する思想を、中華思想(ちゅうかしそう)といいます。
つまり自分(中国)は、「世界の中心にある華(はな)のある国」、つまり中華(ちゅうか)であると思っているわけです。
だから日本(倭)だけでなく、他の国の使者でも馴れ馴れしくあいさつしたら「周囲の野蛮な国」と中国は不機嫌になるわけです。
朝貢とはなにか
このように中国は中華思想という面倒くさい考えを持っているので、中国と交流したい場合には低姿勢で対応しなくてはいけません。
あなたがもし立場が上の人に、気に入られたいならどうしますか?
ひたすらおべっかを使って相手をおだてることかな。
それもいいけど、もっといい方法があるよ。
それは相手に菓子折りなどをおくって、相手をおだてることです。
この方がより効果的です。
つまり周辺国、たとえば倭は中国に使者を送る場合は貢ぎ物(みつぎもの)を持っていかなければいけないということです。
このような貢ぎ物を持っていく使者のことを朝貢(ちょうこう)といいます。
ただし注意して欲しいのは、朝貢をおこなうのは中国が強い場合だけです。
中国が周辺国よりも強いからこそ朝貢するのです。
冊封とはなにか
この朝貢の品物は中国皇帝が喜びそうなものであるので、倭の特産品を持っていくことになります。
すると中国皇帝は、「よく来たな」として朝貢の品物を気持ちよく受け取ります。
遠いところからよく来たな。
朕(ちん)を尊敬してやってきたのだな。
ちなみに「朕」とは、皇帝の一人称のことです。
さらに中国に敬意を示した周辺国家の使者に対して、中国は優遇(ゆうぐう)してくれるようになります。
そしてその周辺国の使者に対して、土産(どさん)というお返しの品物を与えます。
ちなみに現在の「お土産物(おみやげ)」の語源はここから来ています。
さらに中国皇帝から称号(しょうごう)をもらいます。
たとえば後漢書東夷伝の金印(きんいん)がそうです。
あくまでの「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という称号とセットで金印をもらっているのです。
さらに魏志倭人伝で邪馬台国の卑弥呼に与えた金印も、「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号とセットでもらっています。
つまり朝貢をすると、必ず土産と称号のお返しがもらえるわけです。
これを冊封(さくほう)といいます。
このように朝貢をしてきた権力者に対して冊封することによって、周辺国と中国との間に上下関係ができるわけです。
日本以外の冊封体制のメリット
ではなぜ周辺国は中国に対して朝貢していたのでしょうか?
日本の権力者の場合は、朝鮮半島の鉄製品を手に入れるためという明確な目的がありました。
じつは他の周辺国にも朝貢をおこなう理由がありました。
ひとつめの理由は、中国が東アジア最強国家なので攻められると嫌だから中国と良好な関係を作っておきたいからです。
そしてふたつめの理由は、中国からの土産や称号に魅力があったからです。
土産は基本的に中国の進んだ文化で作られたもの、つまり周辺国の文化で作られたものよりも圧倒的に豪華(ごうか)で進んだものです。
それは土産だけでなく、中国の進んだ文物を取り入れることでもいえます。
つまり周辺国の首長はこの中国の土産・文物、さらに称号を敵対しそうな勢力に見せつけることで、「俺のバックには中国様がいる」と威圧することができるのです。
ことわざでいう、「虎の威を借る狐」です。
つまり周辺国の首長にとって、中国からの土産・文物や称号は自分の権威付けとして有効だったのです。
このように日本以外の周辺国にも中国に朝貢した理由があったわけです。
冊封体制による秩序
このように日本(倭)を含めた多くの周辺国が中国に朝貢すると、中国を中心とした上下関係をもつひとつの大きなまとまりとなるわけです。
(ただし中国は周辺国の内政にまでに口を出すことはなく、あくまで形式的な上下関係です)
そして中国が強い限り、このまとまりは繰り返し作られていきます。
つまり中国の王朝がコロコロ変わっていったとしても、同じようなまとまった体制ができるということです。
たとえば室町時代に足利義満(あしかがよしみつ)は明(みん)と日明貿易(にちみんぼうえき)を行っていましたが、これも朝貢貿易です。
つまり足利義満は明に朝貢して冊封を受けていたわけです。
このような周辺国と中国との上下関係をもとにしたまとまった体制を、冊封体制(さくほうたいせい)、または華夷秩序(かいちつじょ)といいます。
ちなみに華夷秩序の「華」は中国、「夷」は夷狄(いてき)、つまり周辺国を指します。
このような中国と周辺国との上下関係を、冊封体制(さくほうたいせい)、または華夷秩序(かいちつじょ)といいます。
華夷秩序の「華」とは中国、「夷」は夷狄、つまり野蛮人の意味で周辺国のことです。
つまり、中国は周辺国の人々のことを下に見て、野蛮人と表現したいたということです。
その例として中国は、
- 東側の野蛮な人→東夷(とうい)
- 西側の野蛮な国→西戎(せいじゅう)
- 南側の野蛮な国→南蛮(なんばん)
- 北側の野蛮な国→北狄(ほくてき)
と呼んでいました。
だから日本(倭)についての記録は、後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)に記載されているわけです。
まとめ
- 史料対策の勉強においては、知識のインプットを優先することが大事。
- 日本が中国と関係を持ったのは、朝鮮半島から鉄製品を入手しやすくするため。
- 弥生時代の中国に対して、周辺国は朝貢の使者を派遣した。
- 中国は朝貢の使節に対して、称号をあたえる(冊封)ことで形式的な上下関係(冊封体制)を構築した。
- 冊封体制にキーワードは中華思想・朝貢・冊封である。
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